定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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追想「蝉しぐれ」3

藤沢小説の味

藤沢作品の映像化について書く以上見ておかなくてはと、今夜の「秘太刀 馬の骨」最終回を見た。やはり、このシリーズは見なくてよかったと思った。初回を見たときから違和を感じていた。ずいぶんモダンというか前衛的な映像つくりだなという印象だった。
近藤等則のラッパが気に入らない。以前、藤沢ドラマでもあったが、あのときはまだしも今回はやりすぎの感否めない。脚本も現代人の感覚の対話である。藤沢は意外な位封建的道徳を重視していた。それは、彼が封建的というのではない。配役の内野はいい役者だが遊び人で真面目という性格は無理だ。雷蔵といきたいがせめて若い頃の吉衛門ぐらいの色気がほしい。まあ、言い出すときりがないのでこの辺にして、藤沢小説は一見映像的な文章のように見えて、実はそうでもないということを言いたい。

映画でもやはり同じことがある。昨日の朝日の映画評でも、「蝉しぐれ」の出来に対して厳しかった。監督の黒土三男はテレビでも同名の脚本を担当しただけあって思い入れは深い。原作のもつ自然描写には丁寧に描くが押し付けがましさがある、物語も歌いあげて過剰だといわんばかりの評価だ。私はまだ見ていないがなんとなくわかる。

たしかに藤沢小説を読めば映像化の誘惑にかられるが、まずこれで成功したためしがない。というのは、言葉の技術を駆使した「映像世界」なのだ。
ちょっとそれるが与謝蕪村の句を読んでもらいたい。
 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
 さみだれや大河を前に家二軒
いかにも絵画的で映像が浮かんできそうだが、本当に再現して撮ったらどうなるだろう。おそらくこのイメージは現出するのがなかなか困難だと思われる。仮に造形しても出来上がったものを見て、こういうのではなかったというであろう。
当然だ。歴史絵巻的とか絵画的という俳句はあくまで5,7,5の世界で構成されるものであって、カメラアイで画を切り取ることはできないのだ。
山水画の極意でいわれる「胸中山水」のようなことだ。山水画は実景を写したものではない。心象をうつしたものだ。どれほど桂林の風景が似ていようと、それは似て非なるものといわざるをえないのだ。
話の反れついでに。もし映像化があるとすれば、蕪村の「夜色楼台図」のようなことができれば可能かもしれないが。

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といって映像化するなと言っているわけではない。やはり見たい。限定つきにしろ山田監督の「たそがれ清兵衛」やNHKの「用心棒日月抄」などはよかった。
今度の「蝉しぐれ」はキャスティングに期待している。
(もう少し、藤沢小説について話したい気もしている)
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by yamato-y | 2005-09-30 23:07 | ブロギニストのDJ | Comments(0)

追想「蝉しぐれ」 2

直木賞100回目

直木賞の授賞が100回目を迎えたとき、私は特集番組を制作した。選考委員に藤沢がいた。
最終選考はいつもどおり「新喜楽」で行われた。
当時、私は藤沢をそれほど知らなかった。記者会見で選考委員を代表して藤沢が選考結果を報告した。その様子を私は取材したのだ。やせた鶴のような風貌で、手相見のような総髪スタイルの藤沢が印象に残った。

100回目ということでマスコミがたくさん来ていた。選考委員には五木寛之、村上元三といった人気作家、巨匠がいたので、藤沢の報告が終わると、取材陣はそちらへ向かった。人垣が流れてホッとした顔の藤沢周平だった。私の取材とはただそれだけだ。言葉も交わしていない。

このときの受賞はダブルとなった。その一人が杉本章子さんだ。受賞したのは、私の好きな明治の浮世絵師小林清親を主人公とした作品だったのでよく覚えている。杉本さんは福岡在住だったので、後日取材した。その後、杉本さんは藤沢を師として慕い、今では藤沢亡き後を襲うかもと期待される時代小説の名手となった。味はあるのだが文章がいまいち硬い。もう少し、易しい言葉遣いで胸奥を描くことができるようになるといいのだが。でも、期待している。
もう一人、藤沢の後を埋めてくれるかと期待したのが乙川優三郎だ。最初の頃はよかったが、
最近つまらない。やや考証などに流れる。もっと物語の切れ味を出して欲しいのだ。

でも藤沢ファンにして大作家は井上ひさしさんだ。この人の藤沢への思いは一番心に残る。同郷ということでの思いも深いのかもしれないが、昂じて小説の場面を拾い集めて、海坂藩の地図を作ってしまったのだから。その地図の細密さは驚嘆するものがある。
筆が遅くて編集者を泣かすといわれる井上さん(号は遅筆堂と自称している)は、原稿も書かないでこんなことをやっているんだ。夜中、せっせと書き込んでいる井上さんを想像すると楽しい。その熱中ぶりには拍手をおくりたい。

私の好きな作品は「用心棒日月抄」「清左衛門残日録」だが、短編では「雪間草」がいい。
次回は、藤沢の作品がなぜいいか、なぜ映像化がうまくいかないかを、ちょっと書いてみよう。
(この話はつづく)

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by yamato-y | 2005-09-30 00:42 | ブロギニストのDJ | Comments(0)

追想「蝉しぐれ」

藤沢周平の思い出

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かつて取材した天野忠をおもいだした前回に続いてもう一つ。

藤沢周平ブームだ。山田洋次監督が「たそがれ清兵衛」で口火を切って以来(実はその3年ほど前から)、映画化、テレビ化がひろがった。今も「秘太刀、馬の骨」が放送中であり映画「蝉しぐれ」がまもなく上映という状況だ。本屋の店頭には藤沢本が平積みされている。
 以前から私も愛読していたが、これほどもてはやされると少しひるむところもある。藤沢自身派手なことや目立つことを嫌った人だけに、今のブームをどう見ているだろうか。

藤沢が急死したときは覚えている。これであの「武家もの」が読めなくなると落胆したのだ。その時点で藤沢作品の3分の2しか読んでいなかったので、後は一度に読むのが惜しくなった。「貧乏人のご馳走」ではないが、美味しいものは後回しにするように、少しづつ読み進めることにした。やがて全部読んだ。
私が好きな理由ははっきりしている。俳句の世界と上質のミステリーが入り混じっているということ。凛とした文章で品があること。
だから、あまり「市井もの」は好きではない。こじつければ、山本周五郎の『長い坂』の系譜に連なる作品群が大好きだ。

 私は藤沢がかつて小学校の教師をしていたエピソードが好きだ。結核で教壇を去った教師と教え子がその後も長くつながっていたという話だ。これを番組にしたいと思って、奥様に連絡をとったことがある。そのとき、奥様は固辞された。死後ますます盛名となる藤沢をねたんで、心無いことを噂する輩もいて、奥様を悲しませたのだ。このときのことは、あえて個人名は出さなかったが、8月29日のブログで事情を少しく書いた。

 生前の藤沢周平に、私は一度だけ取材し会ったことがある。
     (この話はつづく)
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by yamato-y | 2005-09-30 00:05 | ブロギニストのDJ | Comments(0)

詩人の魂 2

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いけずな詩人、天野忠

これまで詩人という人種に会った機会は少ないと前に書いたが、このブログを始めて
次々に思い出してきた。その一人が天野忠だ。亡くなっているから呼び捨てにするが、会ったときは静かで穏やかな中にただならないものを感じる人だった。内心怖かった。

1987年頃、富士正晴という大阪の「巨匠」が亡くなったとき、京都北園町の細長い路地の奥に天野を訪ねてインタビューした。富士も天野も権威やええかっこしいを嫌ったので、天野の富士評がおもしろかった。富士のことを豆狸(まめだ)のようで変りもんだと言った。「地道なしかしいっこうに映えない安月給でムッツリと暮らす」天野の口からそういう言葉を聞くとおかしかった。自分こそ変りもんのくせにと内心思ったのだ。

 「福井新聞」の記事で知った話がある。高名な詩人西脇順三郎が上洛したとき、天野は庭園を案内した。庭の見方を西脇に尋ねられた天野は、便所から見るのがいい、庭が油断しているからと答えたという。いかにも天野らしいエピソードだ。

 老人にはなるな
     老人になるまでに死ね
     あとで
     うっとりするほど
     それが倖せだったと
     見事な倖せだったと判る

 天野は自分のような老人と繰り返して自分を規定するが、私にはそれほど老人に見えなかった。背が高いうえに身奇麗にしていて、とてもダンディにみえた。都会人のスマートさがあった。

     私の隣りに寝ている人は
     四十年前から ずうっと毎晩
     私のとなりで寝ている。
     夏は軽い夏蒲団で 冬は厚い冬蒲団で
     ずうっと 毎晩
     私のとなりで寝ている
     あれが四十年というものか
     風呂敷のようなものが
     うすら 口をあけている
             
私たちが撮影しているとき、奥様がお茶を出してすぐ引き込まれた。奥で控えているようだった。もの静かで上品な妻女は天野と似合いだった。若い頃は美男美女のカップルだったろう。その伴侶を風呂敷のようなものと呼ぶおかしさ。この詩の中から照れている天野がみえる。

穏やかで静かに陋巷で一生を送った天野忠。その彼にけっして小さくない苦難が戦前戦中にかけて襲ったということを、私が知るのは天野と会ってから15年以上経っていた。
そのときには、天野は幽明境を異にしていた。(この表現を一度使ってみたかった)

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故人を偲ぶには彼岸花がいちばん似合う
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by yamato-y | 2005-09-29 14:00 | 魂のこと | Comments(0)

病院の待合風景

信濃町KO病院

KO病院、薬受け取り窓口の前には200人ほどが待っていた。受け取りの現在の表示番号は290番。
待合コーナーには老夫婦と思われるカップルが目に付く。

夫と思しき人は杖を手にしている、70歳ぐらいか。妻と思しき人は60代半ば、浅香光代似の口うるさそうな女性。
夫「私の受け取り番号は何番?えっ、685番。」
妻「仕方ないわねえ、今日は混んでいるから」
夫「これが終わったら、ちょっと伊勢丹でもいくか」
妻「いやだあ、もうめんどくさい」気がついて「ちょっと、あんた頭くさい。ちゃんと洗ったの」
夫「夕べ洗ったけどなあ」自信なさそう。「ちょっとトイレへ行ってくるかな」
妻「早く行ってきなさいよ」
夫「やっぱり止めておこう。後で行くとするか」
妻「がまんなんかしないで早く行ってきなさいよ。十分時間があるんだから」
夫「もういいよ」
妻「行きなさいよ、ほら」と夫をこずく。
逆らいもしないで夫はじっと腕時計をみつめる。

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by yamato-y | 2005-09-28 13:59 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

穂影の人(3)終わり

中西萩置
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先生は俳句の結社を主宰していて、俳号を萩置と称した。
向井去来生誕300年をむかえて、地元では去来ブームが起こった。先生も新聞に連載をはじめた。それをヒントに番組を企画し、先生に教えを乞うた。
番組のタイトルを考えたとき、先の薄塚のイメージがあったので、「穂影の人」とした。
ホカゲと辞書で引くと、帆影、灯影とあって、穂影はない。穂影では変ですかと尋ねると、先生は俳句の世界ではそういう造語は許されますよと、支持してくれた。

 先生は勉強家で夜遅くまで調べ物をした。そして面白いことに気付くと、1時であろうと2時であろうと時間などお構いなしに私の所へ電話をしてくる。 時には珍しい一文を見つけたから見にこいと言われ、車を飛ばして先生宅へ行ったこともある。呼びつけておきながら、私が玄関の戸を開けると不思議そうな顔をする人だった。ある時、茶菓子にくずざくらが出されたことがあってゲタゲタ笑うと、先生は怪訝な顔をした。

 先生はけっして木石ではなかった。長崎で言う「のぼせもん」だった。
長崎くんちが大好きで初夏の頃からしゃぎり(祭の笛太鼓)が聞こえ始めるとそわそわする人だった。そして秋天の、今頃ともなれば、庭見せの各戸の玄関を楽しそうに眺めて歩いていた。
 くんちは10月半ば諏訪神社の境内で盛大に開かれる。出し物がいいと観客から「もってこーい」のアンコールがかかる。先生はくずざくらの目を細めて見やっていたのを忘れられない。
先生は先年急死した。東京に戻っていた私は訃報に接して呆然とした。

今年もまもなくくんちがやって来る。

 
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by yamato-y | 2005-09-27 16:22 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

穂影の人(2)

中西啓先生


中西啓先生は痩せて背が高く、首がひょろひょろしてキリンのような風貌をしていた。
いつも潤んだような眼で、我が家では「くずざくら」とあだ名していた。
先生のお宅は長崎の中心部古川町にあって、江戸時代から続く医者の家だった。古びた屋敷にお姉さんといっしょに住んでいた。一度結婚したらしいのだが、私の会ったときは独り身だった。
 蔵書がすごかった。先生はいわゆる書痴、愛書家だった。たえず本を漁っていた。長崎関係の書物が出ればすぐ買い、古書のカタログはたえず目を配った。勤務医としての収入のほとんどをつぎこんでいた。
 初めて会った頃の先生は失意の中にいた。昭和57年に発生した長崎大水害で家屋が床上浸水したのだ。万巻の書はすべて水をかぶった。昭和の本は紙が酸性でもろく、江戸時代の和本は紙が張り付いた。一枚一枚はがし天日に干した。気の遠くなるような作業だった。
貴重なキリシタン関係の書物もずいぶん反古になったのではないだろうか。くずざくらは一層潤みを増した。 

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by yamato-y | 2005-09-27 15:36 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

穂影の人(1)

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向井去来

 相模川の鉄橋を渡ると、土手一面に白く薄(ススキ)がなびいていた。すっかり秋だ。

23年前、長崎で勤務していた頃、向井去来の句をもとに「穂影の人」という番組を制作したことがある。

君が手もまじる成へ(なるべ)しはな薄(すすき)  (猿蓑に所収)

長崎郊外日見峠に去来のこの句を刻んだ碑がある。薄塚と呼ばれる。
向井去来は、慶安4年、長崎の後興善町(うしろこうぜんまち)で生まれた。8歳の時、父に連れられて京都へ移った。松尾芭蕉の高弟で、西の俳諧奉行とまでいわれた向井去来が、郷里の長崎へ帰ったのは、元禄2年、秋のこと。31年ぶりの故郷行だった。産土(うぶすな)に甘えるようにして遊んだ後、去来は旧長崎街道のこの峠を越えて帰っていく。縁者や門人たちもここまで来て、去来を見送った。
去来さんは「どちらさまもご機嫌よろしくまたお会いしましょう。さればこれにて」とでも言って、峠を海が見える地点まで下って行った。振り向くと、薄の穂影にまじって人々が手を振っている。まるで別れを惜しむかのようにススキも風に吹かれて揺れる。――

この場面を映像化したくて、半ドラマに仕立てて撮影した。番組の監修には長崎の歴史家中西啓先生にお願いした。本業は内科医だがシーボルト研究で知られる、長崎学の権威でもある。『長崎のオランダ医たち』という岩波新書を著している。
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日見峠
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by yamato-y | 2005-09-27 13:09 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

何でも買える不自由

何でも買える不自由

就職の決まった学生が研究室で話していた。「初任給の提示を受けたら、何でも買える気になってきたわ。1万する時計でも服でも、何でもやでえ」
 可愛いものだ。1万円の時計が夢だったなんて。そういえば、京都出身のライターの口癖があった。「買(こ)うたる、買うたる、何でも買うたる。高島屋でも大丸でも何でも買うたる」といって大笑いする人だった。

昔月給をもらうと、昼飯を少しだけ贅沢したことを思い出した。曽根崎小学校裏のすし屋でイカマグロを食べるのだ。ビールも飲まずあがりだけだったが旨かった。
初めての冬のボーナスではダッフルコートを買った。学生の頃から欲しかったが高くて手が出なかったのだ。VANでなく1ランク上のkentというのが誇らしかった。就職して可処分所得ができるとあれもこれも思っていたが、いつからかそんな欲望も消えた。

この2年はいつも同じ黒のtheoryのジャケットとパンツを着ている。インナーが少し変るだけだが、それとて黒の半そでばかりだ。靴はPrada。履き易く軽く丈夫だ。海外ロケには最適なのだ。それぞれ単価はそれなりに高いが2年ほど使っていると元がとれる。買い換えたとて、また同じ黒。新しい形とか色に目がいかない。

内田教授が大学院の頃の愛読書に『メンズクラブ』をあげていた。金がはいったらあれも買おうこれも買おうと考えていたが、ワードローブが一通りそろったら熱が冷めたと書いていた。
私もまったく同じだ。あれも買えるこれも買えると思っているうちに、時は流れる。体形が変化する。髪が薄くなる。廉価な服だって紅顔の青少年のほうがはるかに美しい。いや、若いくせに高いもの着けている見苦しさより、はるかに格好いい。
何でも買えるというのはけっこう不自由なのだ。トクナガくん。
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by yamato-y | 2005-09-26 13:33 | ブロギニストのDJ | Comments(2)

漱石のDNA

漱石のDNA
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テレビ屋を30余年も続けると、ついぞ野次馬の根性がしみつく。妙な話や変人を知るとつい話を聞きたくなったり調べてみたくなる。そして映像としての素材がありそうだと夢中で追いかけてしまう。これで幾度となく失敗をしている。

昨年、夏目漱石の『文学論』の番組を制作した。きっかけは漱石の家(孫の房之介さんの実家)の納戸に『文学論』の第1稿があるという話からだ。色めきたった。
ところがよく調べてみると、漱石の教え子が漱石の講義を記録した原稿だった。これを元に漱石は『文学論』を書いたとしても、ほとんど真筆とは言いがたく特集番組にするのは無理と諦めざるをえなかった。
一応、房之介さんが探偵となって、『文学論』誕生の頃の漱石像を浮き彫りにするetvの番組だけ作り上げた。なかなか評判はよかったが何か釈然としなかった。

広島にいた10年前、漱石の声を追ったことがある。加計の旧家に録音された蝋管があるという。その家は詩人の鈴木三重吉ゆかりの家で、三重吉が当時珍しかった蝋管録音機で漱石の声をとったものがあるとのこと。その蝋管を再生すれば、漱石の声を得られる。これはスクープだと思って、取材し交渉した。すると、現物は東京の大学の先生が研究するということで持ち去られていた。後を追って、その教授にかけあった。半年後研究の結果が出た。現物には間違いないのだが、この100年近い間に蝋がとけだしていて、原音を抽出するのが不可能だということであった。
こんな因縁があったので、漱石の『文学論』原稿にはかなり執心したがまたしても失敗したのだった。

半年前、内田百閒を読んでいたら、漱石の死後弟子たちは形見をいろいろもらったと書いてあった。内田ももらったが、一番貴重なものは生前に失敬してあったのだ。内田は漱石の原稿の校正をしていたので、かなり近くにいた存在である。
 ある日、漱石の元に参上したら、席にいなかった。ふと机の上を見ると漱石の鼻毛が数本あった。おそらく小説の構想でも練りながら鼻毛を抜いていたのであろう。内田はすぐさま懐から懐紙を出して、その鼻毛をそっと包みまた懐へしまった。と、内田はうれしそうにエッセーに書いていた。
それを読んで私は膝をうった。この鼻毛さえあれば漱石のDNAが得られるではないか。そうすれば漱石の死因や体質もいろいろ判明するかもしれない。その行方を追った。内田という人は金に相当困っていたらしく、なんでもかんでも売っていて品物のありかはほとんど分からず、この企みもまた失敗した。

東大医学部にある漱石の大きな脳は食塩水の水槽の中で、この話を知っておそらく呵呵大笑でもしていることだろう。
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by yamato-y | 2005-09-26 00:37 | 登羊亭日乗 | Comments(0)


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