定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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カテゴリ:シリーズ作品回顧( 61 )

夏の終わりのかほり①

夏のかほり


昨夜の「夏の紅白 思い出のメロディ」はよかったな。まず、司会が三宅裕司とあの松下奈緒という組み合わせがいい。三宅は昭和25年生まれで団塊のしっぽだし、松下は「ゲゲゲの女房」のヒロインと、実に時代を読んだ旬のキャスティングだった。松下へのオマージュもあったのだろう、熊倉一雄が出て「ゲゲゲの鬼太郎」を熱唱するなんざぁ、公共放送にしてはサービスも行き届いていた。一人一曲なんて不文律なんかに捉われず、いい曲を持っている人には2度3度歌わせたというのもいい。森進一の「港町ブルース」と「襟裳岬」。八代亜紀の「なみだ恋」と「舟唄」。アダモの「サン・トワ・マミー」と「雪が降る」。そして小椋佳の3曲だ。
中村雅俊とデュオで「夢の坂道」、布施明単体で「シクラメンのかほり」、最後に小椋のソロで「愛燦燦」。この構成は実に適切で、小気味のいいものであった。

「シクラメンのかほり」という曲が登場した頃、かほり論争というのがあったことを思い出す。歴史的仮名遣では「かをり」が正しいとされるため、タイトルの「かほり」は誤りだという国文学者が出たりして、小うるさい輩もいるものだと、その学者を私ナンゾは軽侮いたしやした。

7年ほど前になるだろうか、ちょうど小椋佳さんが胃癌の手術を受けて激痩せした時期、その小椋佳さんと一緒に福島県の裏磐梯地方に出かけたことがある。
「ETVスペシャル」の枠で放送したもので、「美しく生きたい~小椋佳 還暦からの出発」と題した伝記ドキュメンタリーだった。デビュー40年を期して、それまでの個人史を振り返るという趣旨のETV特集を制作するために、福島県まで遠出したのだ。その地には、小椋さんの青春の思い出がつまっているということで、インタビュアーの渡邉アナウンサーも同行するという普段のロケとは一風変わった旅となった。

大学3年の頃の小椋佳。弁護士になろうと国家試験を受けることを決めたものの、かなりの受験勉強が必要となった。ちょうどその頃、付き合っていた女性が役者になるため文学座に入ることになり、小椋に別れを告げた。その悲傷を振り切ることを兼ねて、勉強のため彼は福島の檜原湖畔早稲沢の学生村にひと夏こもることにした。朝のうちは勉強、昼から村の仕事を手伝うという日課を繰り返しながら、小椋佳ことカンダコージ青年は鬱々と楽しまない日が続いた。その女性のことを諦めることができなかったのだ。
そうしたある日、夏の終りのこと。白い帽子をかぶった、スーツケースを持った女性がその村に現れた。別れたはずのあの女性だった。その人は後に妻となる「佳穂里(かほり)」さんだ。この話を、現地で聞いたときはまるでドラマを見るようで感激した。聞き手の渡邉さんが実にうまかった。小椋さんも気持ちよさそうに、病み上がりと思えない明るさで語ってくれた。

(つづく)
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by yamato-y | 2010-08-22 12:36 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

別れ盃

別れ盃

大木惇夫の「戦友別盃の歌」という詩を森繁久彌は折りに触れて嘆賞した。

「言うなかれ 君よ別れを 世の常を また生き死にを
海原の はるけき果てに 今やはた 何をか言はむ・・・」
戦時下の勇猛を賛美した詩として大木は戦後その責任を問われることになるので、長く世に出て来ることはなかったが、森繁がたしか亡くなった向田邦子を偲んでこの詩を贈ったことから、私の目にふれることになったと記憶している。

ついに森繁が逝った。96歳で老衰だそうだ。天寿を全うしたといえる。が、晩年親しい年少が先に死んでいくのを嘆いた森繁にとって、この天寿は幸せだったかどうかは判別が難しい。

その嘆きの始まりは30年前の向田邦子の急死であっただろう。時に彼女は51歳だった。森繁66歳。
二人が出会ったのは1962年から始まったラジオ放送の「森繁の重役読本」からだ。ちょうど向田が出版社に勤めながら、放送の内職原稿を書き始めた時期である。
試しに書かせた向田の原稿を見て、森繁はすぐ才能を見抜いた。座付き作家として起用する。この頃、向田は恋人Nと交際していた。その気配を森繁はなんとなく知っていて、ときどきからかった。東京オリンピックが近づいていて、世は高度成長の波に勢いづきはじめた頃である。。

「森繁の重役読本」はデイリーの番組だから全部で2448回放送されたことになる。1000本を越えるあたりから、森繁によって向田にテレビ脚本執筆の話がもちこまれる。1964年からTBSで始まった『七人の孫』第1シリーズである。そのドラマがはじまって、まもなく恋人のNが死んだ。

この時期の10日だけ、「森繁の重役読本」の担当を向田は降りていて、代筆が立っている。当然、森繁は向田に異変があったことは分かったはずだ。だが森繁は向田に何もいわない。

この恋人の死とテレビドラマ執筆開始の事情がからんで、向田は実家を出ることになる。家を探して、千駄ヶ谷のあたりにアパートをみつけた。

10月10日、荷物を運び入れて、ふと近くの国立競技場のどよめきに向田は気がついた。東京オリンピックの開催式だったのだ。最終ランナーが聖火台を駆け上っていく姿を見た時、向田はこらえていた涙をこぼした。
このことを向田はエッセーに記している。この涙の意味を知っていたのはほんの数人であろう。その一人に森繁久彌がいた。
向田が早世したとき、若い「戦友」を失ったと、先の大木淳夫の「別盃の歌」を森繁は噛みしめたに違いない。

多摩の墓地にある向田邦子の墓碑銘「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」は森繁の作だ。
そういえば、森繁はあの成島柳北の子孫だと聞いたことがあるが、文芸もよくする人だった。その森繁も逝き、いよいよ向田のことを知る人も少なくなった。

今週の土曜日、11月14日の午後4時から、「向田邦子が秘めたもの」が再放送される。数年前に制作して総務大臣賞を得た作品だが、久しぶりにBS20年を記念して放送されることになったのだ。ごらんいただきたい。

「この夕べ 相離るとも 輝やかし 南十字星を いつの夜か また共に見ん
言うなかれ 君よ別れを
見よ空と 水うつところ 黙々と 雲は行き雲は行けるを」

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by yamato-y | 2009-11-12 05:20 | シリーズ作品回顧 | Comments(2)

忘れまい

忘れまい

 8月9日、長崎原爆忌。64年前の今日、11時2分に浦上の中心部の上空500メートルでプルトニウム型原子爆弾、通称ファットマン(デブ)がアメリカ軍によって爆発させられた。原爆は投下された、という主語のない表現は好まない。罪を犯したのはアメリカであり、被害者は日本の長崎に住んでいた人たちである。被害者は日本人だけとはかぎらない。そうでないから「住んでいた人」とあえて記す。強制的もしくは植民地化されたためやむなく日本へ渡ってきた朝鮮半島や中国の人々、そして連合國側の捕虜、枢軸国側の教会関係者など、さまざまな国の人たちがこのデブの犠牲になったのだ。

広島の犠牲者でも中学生や女学生が多かったのは、戦争末期で大きな働き手となっていたことによる。建物疎開や勤労動員などに狩り出されていたことが大きな要因だが、長崎でも事情はよく似ている。浦上の爆心地周辺にはミツビシの兵器工場が密集していた。そこで働いていた大半は、10代の学生たちだった。谷村キミも兵器工場で働く県立高等女学校の報国隊員のひとりであった。
 11時2分。一瞬の閃光、気がつけば工場は倒壊し、火の手があがっていた。キミは血だらけになりながら裏山に逃げる。そこから見た浦上の町は火の海となってあちこちから黒煙があがっていた。
傍らにうめき声をあげる女子がいた。だきおこすと、同級の米原光子だった。彼女は急性原爆障害を起していて瀕死だった。キミは彼女を抱きかかえながら浦上を逃げ惑う。長崎本線の線路まで出たとき、ひときわ高く警笛を鳴らす列車があった。救援列車である。二人はこの列車に必死で乗り込む。
列車は長崎を離れ、諫早、大村、へと避難していく。キミと米原は負傷したまま佐世保あたりまで連れて行かれ、廃墟となった長崎に戻るのは10日後のこととなる。その間、キミは負傷した級友の看病にあたった。

キミも米原も生きのびた。被爆当時は元気だったキミも、昭和23年あたりから病気がちになった。その頃、遠方にいた親友に向ってキミは原爆被災の状況をつづった手紙を書いた。分厚い手紙で、文学少女だったキミの筆致は鋭く、被爆直後の状況を活写して感銘深い。手紙を受け取ったのは壱岐に疎開していた村井スマ子である。しばらくしてキミは死んだ。24年のこと。

キミの手紙の存在を私が知ったのは昭和57年のことである。長崎県立高女の同窓会では、昭和24年原爆病で21歳で死亡した谷村キミ子さんの手紙「キミちゃんの手紙」をその数年前からまわし読みしているという話を掴んだのだ。私は読んで衝撃を受けた。番組にしようと企画を立てた。
ところが、この素材を掴んだものの、当時私は他の番組を抱えていたため、後輩のディレクターに制作を一任することになる。無事にドキュメンタリーとして作品化され放送された。58年8月4日放送、 九州スペシャル 「キミちゃんの手紙~ある被爆少女の遺稿~」という作品である。
しかし放送は出たものの、私はこの手紙のことが心から離れず、1年後、この記録を私はノベライズして、未来社から出版することになる。これが私の最初に書いた本となる。この作業を通して、長崎被爆の実相を総体として把握することになった。

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by yamato-y | 2009-08-09 13:16 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

あるエピソードから

あるエピソードから~小高文夫の映像について~

葬儀を終えて、まっすぐ大磯へ戻った。本日は休暇をとって、大磯の家で、友であった小高くんの仕事について考えてみたかった。

1989年から90年にかけて、私は小高くんといっしょに「世界はヒロシマを覚えているか」というドキュメンタリーの撮影取材を行った。このとき、大江健三郎とヒロシマのつながりについて洞察しながら、おりしも冷戦末期で局地的核戦争の可能性が高まっていて、その事態を大江が見るため現地を行くという、二つの場を持つスタイルを番組は志向した。

私は大江さんと番組の打ち合わせを何度も重ねた。その頃、大江さんは映画「ストーカー」(アンドレイ・タルコフスキー監督)にご執心だった。今度作ろうとする番組は、あのタルコフスキーのような深い映像にしたいものだね、と何気なく言った大江さんの言葉は、制作担当である私やカメラマンである小高くんを十分に震え上がらせた。番組のお手本として映画が上がる。しかも、あのタルコフスキーの映像・・・。

冗談じゃないですよ、と小高くんは謙遜したが、それから半年にわたる長い旅の間、ずっとその言葉に挑むようにして彼は撮影してゆく。小高くんは見かけの優しさと違って、負けず嫌いであり、誇り高かった。
東西両陣営のオピニオンリーダーと大江さんが対話するという点が、番組のキモではあるが、その旅先で見せる大江さんの感受性と思索が大きな魅力となっていく。それを、小高くんは素晴らしい技術と感性で、現場を一度も遅滞させることなく、鮮やかに切り取っていった。

サンフランシスコの小さな、大江さんお気に入りの教会を訪ねたときだ。平日だったので会堂には大江さん以外誰もいない。祭壇の下手に掛かっている聖画の前に小説家は立った。まんじりともせず、しばらくその絵に見いっていた。
大江さんが溜め息をもらし緊張がほどけた段階で、なぜこの絵に引かれるのかを、私は脇からインタビューした。「河を渡る人」というその絵はキリストを背負うヨハネの絵であった。否、記憶がおぼろだ。ヨハネを背負うキリストだったかもしれない。――その絵に、大江さんは自分と息子の光さんを重ねていたようだ。苦しそうにだが大切そうに、大江さんは、息子と歩んできた道について、一つのエピソードを語った。この場面を撮影するのに半日かかった。

その夜、ホテルに戻って、私ら制作陣はラッシュを見た。小高くんは、蒼ざめた大江さんを撮っていた。どういう色調整をしたのか、聖画を見つめる大江さんの顔は蒼ざめ、目の光だけが、その蒼さから抜きでていた。その映像は、大江さんのインタビューに答えた内容にふさわしいものであった。

蒼ざめた画像の種明かしをすれば、屋外から教会のなかへ入った段階で、カメラはいったん色調整をするものだ。それをしていない。もし、そうするなら、撮影対象(ここでは大江さん)の動きを止めることになる。カメラの都合で、動きを止め思索を止めることになる。高まっている大江さんの思いがしぼむことが十分考えられた。
ところが、小高くんは大江さんの動きを一度も止めずに、続行して撮影する。当然、不自然な色になる可能性は高い。だが、それは大江さんの苦しい胸のうちを反映するかのような蒼ざめた画像になるかもしれない。ケガの功名で、結果としていい感じの映像になったということはあるかもしれない。だが、失敗すれば、ぜっかくのチャンスがすべてふいになる。彼は、賭けた。積極的に押し出したのだ。しかも、大江さんの眼光が光っていく瞬間を逃さずに、撮影は攻めていった。

これは、彼に運が味方してくれて、いい映像になったのではない。実は、彼は、テレビカメラの機能をすべて把握していて、撮影している対象に当たる光量から、どのスィッチを使えば、画像がどう動くかは知悉していたのだ。分かったうえで、カレンダーのようなリアリズムの映像でない、「カメラマンの認識としての映像」を作り上げたのだ。

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小高くん愛用のフィルムカメラ
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by yamato-y | 2009-01-08 22:38 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

甦った妹の名前

甦った妹の名前

今年の秋は台風が少ない。私は喜んでいる。雨風の襲撃は大磯の山の上は辛いのだ。
大風が吹く度にぎくっとする。大雨が降る度に裏山をのぞく。なにより、我が家の様子を案じる。
それやこれやで、台風は出来るだけ遠ざけたいと思っている。

昨夜は涼しかった。戸を開けたまま寝たら、今朝少し喉が痛かった。少し冷え込んだようだ。やっと秋になった。

来週から京都で集中講義となる。4日間、ぶっ通しの講義のための準備をしておかなくてはならない。今週に入ってから教材として使用する映像のチェックを始めて居る。自分が昔作った作品を久しぶりに見ると、いろいろな思いがある。
長崎時代の「甦った妹の名前」という10分の短い作品を私は制作した。昨夜久しぶりに見た。

昭和20年8月9日、登校していた純心高女の女学生差方保子は原爆に被災して行方不明となった。
遺骨もみつからないまま40年経過していた。二人の姉たちは長く妹の行方を追っていた。遺骨がなくとも、せめて女学校に在籍していたことだけでも記録しておきたいと母校の純心高等学校に出向く。その様子を私は撮影した。

学校では当時を知る関係者や同学年の生存者にあたって聴取するが、差方という変わった名前にもかかわらず、在籍していたという事実がみつからない。
落胆した姉たちは、当時妹が語った学校の様子をぼそぼそと話しはじめた。シスターである校長はぎょっとした顔で耳を傾ける。というのは、保子が姉たちに語った様子は自分が昭和20年の夏に学校の前で見た光景だったからだ。

突然、校長は心当たりが一つあるといって東京へ電話する。保子と同学年の同窓生だ。彼女は戦後長崎を離れて東京で暮らしていたが、差方保子という人物を覚えていた。この学校に在籍していたということを証言してくれた。

この電話で校長が確認を取っている間、カメラはずっと二人の姉を撮っていた。姉たちは滂沱とする涙を押さえられなかった。

この画面を昨夜遅く見ていて、私も胸が熱くなった。
当時、私は30代。姉たちは60過ぎでずいぶん年寄りに思えた、が、今の私とほぼ同じなのだと知ったら、彼女たちの思いがよく分かった。
終戦から2、30年は生活に追われて、気にはなっていても、妹を探す時間も余力もなかったのだろう。子育てを終えて、自分の時間をとりもどしたとき、ようやく爆死した妹と向き合うことができたのだ。そして、憑かれたように、長崎市内の殉難碑、寺社を調べて回ったのだ。
60歳になって、やっと彼女たちの心境が分かった。

差方保子の名前が、その後、純心高女殉難の碑に刻まれた。その名前を見に長崎へ行きたいと思った。

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by yamato-y | 2008-09-09 08:25 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

ひげ面

ひげ面

 連休の間、ひげにあたることなく過ごしていたら、今朝洗面所で自分の顔を見てぎょっとした。不精ひげがぽしょぽしょ伸びてみっともない。髭はけっして濃いほうではないのだが、それでも3日間放置すればむさ苦しい長さとなってしまう。
 白髪混じりの髪も伸び放題のぼさぼさで梳かしても寝ぐせが直らず、貧相だ。どう見ても前期高齢の失職した顔だ。

 14年前、大江健三郎さんを長期に取材したことがある。春から夏の終わりまで、およそ4ヶ月に渡り大江さんの身辺にカメラは張り付いた。大江さんが「最後の小説」を書こうとしていた時期で、息子の光さんは初めてのCDを制作していた時期でもあった。
 小説家が小説を書く場面というのはめったに撮影できるものでない。作家が霊感のようなものと交感しながら原稿用紙に一文字一文字を埋めていく”作業”となる。大江さんは当時も今もそうだが、文章を万年筆で書いていく。ワープロやパソコンはいっさい使わない。それは不可侵の作業であって撮影クルーが周辺に立ち入ることなど許されるものではない。そう分かっていても、私たちは撮影したいと思った。特にその小説「燃え上がる緑の木」の最終節を書き込み仕上げる場面は逃したくなかった。

 大江さんという人はとてもダンディだ。五十歳を過ぎてもスイミングプールに通ってからだを鍛えていたのでスリムだったし歩き方も膝がすっと伸びて美しい。奥様の見立てだと聞いたがシャツやジャケットも実におしゃれなものを身につけていた。そういう人だから何時撮影に伺っても、髭はきれいに剃られ髪は整えられていた。

 プロデューサーである私はクルーに「大江さんの髭面をなんとか撮ってほしい」と指示した。よそ行きではない顔を撮ることによって、番組が予定調和で仕組まれたものではないというリアリティを示すことができると、私は考えたのだ。

 そしてチャンスは執筆最終日におとずれた。
 その日は朝から大江家にバッハの「マタイ受難曲」がかなり大きな音で流れていた。最後の節を書き上げるうえで、大江さんはその音楽を聴いて気分を高揚させていた。数日前から大江さんの徹夜は続いていた果ての「マタイ受難曲」だったので、その日に「燃え上がる緑の木」最終章の第一稿が出来上がるだろうという予想がついた。

 リビングに現れた大江さんは見事に髭面だった。体はきつそうであったが、目がらんらんと光っていた。ゆかり夫人に向かって髭をそらなくてはと呟いた。夫人は「そういう顔もいいわよ」と答えた。すると――
「いや、そう言ってくれるのはあなただけだ。私はもうすっかり60近い汚らしいジジイだ」と嬉しそうに語りながら洗面所へ向かうのであった。

 現在の私は、あのときの大江さんよりも年長になっている。私もすっかり60のジジイだ。あのときの大江さんのもっていたエネルギーを、なんとか私も持ちたい。

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by yamato-y | 2008-05-05 12:25 | シリーズ作品回顧 | Comments(1)

樹木への虐待

樹木への虐待

恵比寿駅そばに、樹にイルミネーションを施しているレストランがある。これがを美しいといえるのだろうか。見苦しい。私は嫌いだ。いかにも客集めといった魂胆が透けて見えて不愉快だ。

だいいち、樹がかわいそうだろう。昼間に十分人の目を楽しませているのだ。夜ぐらい静かに寝させてやれ。たしか、植物は太陽光を使って光合成をするはずだ。こういう人工光の場合はどうなるのだろう。やはりせっせと合成しているのかな。とすれば働きづくめで休む暇がないではないか。お城や東京タワーをライトアップするのは分かるが、自然物に照明をあてることもないだろう。

同じ理由で盆栽は嫌いだ。あれのどこがいいのかと思ってしまう。人間の驕りとしか思えない。そんなに樹木の枝ぶりが見たければ、山奥まで出かければいいじゃないか。 

樹木の傍に空き缶を投げ捨てる奴は許せない。樹は動けないのだぞ。行って拾うわけにはいかないのだ。きわめて不自由な体の植物の前に平気で缶をぽい捨てする奴、それを許すわけにはいかない。

樹に「人格」があると思ったのは大江さんの故郷へ行ったときのことだ。大江家から裏山を望むと一本の樅ノ木が見えた。大江さんは子供の頃からそれを「モミエモン」と呼んで慣れ親しんできた。

撮影で、その樹に大江さんが近づいたとき、モミエモンは嬉しそうに光り輝いたと思った。嘘じゃない証拠に、そのときのコダカカメラマンが撮った映像を見れば分かる。光をいっぱい浴びたモミエモンが大江さんを見て笑っていた。このときの映像は私の宝物だ。


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by yamato-y | 2006-11-14 23:05 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

サノヨーコの謎

サノヨーコの謎

佐野洋子の新刊『覚えていない』(マガジンハウス)を読んだ。下品だ。
ホントにこの人は品がない。人間の大事なものは2つあって1つはお金で1つは愛の生活だって。その後者は《遠まわしに言ったけど、愛の生活ってセックスライフのことである》とあけすけに書く人、それがサノヨーコである。

だいたい言葉のセンスが変態だ。男性器はチンチンと書くくせに女性器は××××と表記するんだぞ。余計いやらしいじゃないか。しかも自分の性の側を伏字にするというひん曲がった根性。

先日、椎名誠のキャスターによる絵本の特集番組を制作したが、ここだけの話、椎名VS佐野対談を当初予定していた。ところが直前になって、サノさんが体調を崩し“異色対談”は流れた。惜しかった。めったにテレビに出ないサノさんを引っ張りだし、彼女が「日本の最後の男」という椎名氏と対話するなんて、こりゃ僥倖というもんだぞと張り切っていた。なのに体をこわしただなんて・・・。そういうこともあって、サノさんの近況が気になって新刊本を求めて読んだのだ。

サノヨーコという存在は謎である。当人は忘れているかもしれないが、30年ほど前私の担当するラジオ番組に、出てもらったことがある。そのときの印象は悪かった。いかにもギョーカイ風の言葉を放ち、タバコをすぱすぱくゆらすヤンママだった。親友とかいう女友達をそばに置いて、そっちとばかりしゃべっていた。入社間もないような私など、目に入らないといったかんじで、女友達と男の話ばっかしてた。

それでフシギに思った。なんで、この人があの佐野洋子なんだろうって。だって、現代絵本の名作、古典とも言うべき「100万回生きたねこ」の作者が佐野洋子だよ。とても私が会ったサノヨーコと同一人物に思えない。あんなに愛することの見返りを期待しない、純粋な愛の物語を描いた、絵本界のバイブルともいうべき作品の作者なんだよ。信じられるか。

私が会ったサノヨーコは美大出身の翔んだ女で、ファニーな顔をしてスタイルがよくってバイクが好きで布施明が好きな、ミーハーなおんなだった。そのミーハー姉さんが戦後詩檀の大物にして知性派詩人の谷川俊太郎と再婚したんだよ。これもサノヨーコの大きな謎の一つだ。どこに二人は惹かれあったのだろうか。まあ余計なお世話だが気になる。知りたい。

と、一筋縄ではいかない、くえない小母さん(当人がそう名乗っている、68歳になったんだって)が書いた新しいエッセーがこれまた結構なもの。グヒヒヒと下品な声で笑いたくなる代物。そのくせいったん本を置いた後からじわーっと何かがこみあげてくる。まだ読んでいない方にはぜひ読んでもらいたい。平明な文章で、表現が感覚的かつ映像的で読みやすく、私は帰りの電車1時間20分で読了した。

ここまで書いてきて、気がついたことがある。ラジオの打ち合わせのときに女友達が侍(はべ)っていたことだ。サノさんは照れていたんだ。一人でラジオの取材を受けるのが恥ずかしかったんだ。真面目なラジオ第2放送のトークをすることを照れていたんだ。だから友達を呼んでおいたんだ。煙草をやたらめったら吸っていたんだ。

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by yamato-y | 2006-11-13 22:35 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)

「私は虫である」の放送を終えて

「私は虫である」の放送を終えて

たった今アーカイブスの中の私の番組が終わった。加賀美さんが丁寧に番組の紹介をしてくれた。嬉しかったな。
15年も前に制作したのだが、ナレーションのコメントの一つ一つ、編集したときのカットの一個一個にこめた思いが思い出された。

取材した空間は1キロ四方の中、登場人物はわずか3人、といういたってシンプルな作り。それは、この物語を作ろうと思いたったときから決意していた。〈絶対に、この場所以外の場面を撮影しない、夫婦と少年以外は登場させない〉

繰り返し見ても必ず胸がいっぱいになるのは、直人くんのシーンだ。彼が当時流行っていた天地真理の「もしもあなたが」をハミングする。その顔から彼が帰って行く画に移ってゆく、あのシークェンスだ。直人くんのやさしいハミングが、この番組を見終わってもずっと耳朶に響くのだ。
私は、この番組を編集しながら、直人くんの将来に幸多かれと心から祈ったことを、思い出す。

 この番組を、他の人たちはどんなふうに見てくれたのだろう。それが知りたい。

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by yamato-y | 2006-11-13 00:36 | シリーズ作品回顧 | Comments(1)

カメラも虫の目になった

バブルの時代にこんな人がいた③

取材は初夏から中秋まで続いた。ニッキーは経験がほとんどないので、介添えにベテランのU沢ディレクターを立てた。カメラマンは北海道から転勤してきたばかりのI田君だ。素朴で無口でにこにこ笑っているI田君が凄い腕の持ち主だとは、当初予想もしなかった。

完成した作品を見てもらえば分かるが、盛り上がりのない淡々としたドキュメンタリーだ。いわゆる画のならないエピソードばかりだ。あるとすれば、3つのハイライトシーンがある。
1つは蝉の羽化。2つめは自閉症の少年との語らい、3つめはライフワークの絵を描きあげる。とても、ゴールデンの時間帯に流れるような話ではなかった。特に、当時はバブルで豪華や美食ということがこれでもかと言わんばかりに華やかに番組として仕立て揚げられる傾向がつよかった。その中で、ぽつんと地味な番組が放送されたのだ。

3ヶ月のロケで、節目で撮影したビデオを私は目を通した。I田カメラマンの力量に目をみはった。熊田画伯が昆虫を観察するシーン。虫は近づいただけでもすぐ逃げるものだが、画伯の場合はそういうことがない。だが撮影するカメラマンは別だ。彼は虫にとって外敵と疑われる存在だ。画伯がどれほど観察できても、その光景をそばで撮影するのは無理であろうと私は諦めていた。
 
ところが、撮れてきた映像はすべて至近距離だ。ズームで撮影しているわけでなく、自分の気配を消してきちんと虫と画伯の関係を押さえていた。虫は撮影されていてもいっこうに逃げないのだ。いったい、どういうふうに撮影したのかと、首をひねるスーパーショットがいくつもあった。

ドキュメンタリー「 "私は虫である"」
放送日時予定:2006年11月12日(日)午後11時10分~(そのなかの約45分間)

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by yamato-y | 2006-11-09 16:39 | シリーズ作品回顧 | Comments(0)


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