定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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カテゴリ:人生にジャストミート( 8 )

遥かなわがスペイン

ゲルニカの帰郷

初めてスペインへ行ったのは29年前の1980年。長男が生まれた年なのでよく覚えている。初めての海外取材であった。
――その数年前から私はスペインの芸術、文学、歴史、そして政治に興味をもつようになっていた。その頃はまだ独裁者フランコの威光が生きていた。緩くなったとはいえ、ファシストの時代はまだ残っていた。冷戦構造はスペインにおける軍部の支配を容認する状況にあった。
 1975年、フランコ総統が死んだ。スペインを取り巻く情勢がいっきに流動化しはじめた。民主化の声があがってきた。50年前、滅ぼされた共和政の理念が甦ってきたのである。

 ピカソの生誕100年を迎える1981年に、長くニューヨークの近代美術館(MOMA)にあった名画「ゲルニカ」がスペインへ帰国するかもしれないという風聞が流れた。ピカソの遺言で、祖国に共和政がもどるまで、この絵を返すなということになっていた。が、フランコが死去し政体が変れば返還の可能性もあるとなったのだ。先に「わが心のスペイン」という企画が落選していた私はこの名画の話を知ってチャンス到来と小躍りした。二十世紀の天才ピカソが関わる事柄であれば特集企画として採用されるかもしれない。その絵の由縁をたどるドキュメンタリー「二十世紀の傑作ゲルニカの帰郷」を企画提案した。

 ぼくはスペインの革命に惹かれてこの企画を立てた。同じ素材を亡命したパリにおけるピカソという視点から立てた人物が報道局にいた。10年以上先輩にあたる、柏倉康夫さんだ。柏倉さんはパリの特派員の経歴をもつ辣腕のディレクターだ。パリ支局に勤務しているときに、亡命したピカソの足跡を追っていた。そして「ゲルニカの帰郷」という主題を見つけていたのである。
つまり、ぼくと柏倉さんは同じ主題と同じ時期に遭遇したのだ。番組制作局から私、報道局から柏倉さんが出した企画がよく似ているということで、双方合体して制作にあたったらという指示が局の上層部から出た。ぼくは、自分の企画を携えて柏倉組に合流することになった。

「ゲルニカ」――MOMAに“借用”されたままになったこの名画が辿った数奇な運命。
これを描くため、私たち取材班は1980年にスペインに渡った。
 この年の日本は寒く冷夏だった。8月の終りに日本を飛び立った。ピカソが生まれた南スペイン、マラガの海で、私はその夏はじめて泳いだ。地中海。西の外れの海はジブラルタルのすぐ傍、アフリカは指呼にあり、波のない穏やかな海であった。まもなく誕生する子供の名前を少し考えながら泳いだことを覚えている。

マラガ、バルセロナ、マドリッドとスペイン国内を旅し、最後に北部のバスク地方の町ゲルニカを訪れた。このあたりの文化や言語は中央スペインと異なり、私が訪ねた時期もバスク分離運動が盛んに行われていて少し不穏な情勢下にあった。

 1937年4月26日、日曜日。市場の立つ日であった。町は朝から賑わっていた。そこへ山陰から2機の戦闘機が現れた。バスク地方の人民戦線派をたたくために編成されたナチスドイツのコンドル兵団の爆撃機だ。フランコの指揮下にあったのは言うまでもない。警告もいっさいなく、無差別に約10万ポンドの焼夷弾と高性能爆弾を投下。ただちに町は破壊され、炎上した。
 この無差別爆撃によって、人口7千の町は2500人の犠牲者を出すことになる。大半は婦女子、司祭、尼僧など非戦闘員であった。二十世紀の無差別爆撃はここから始まり、広島、長崎で最大の悲劇を生む。このゲルニカの名前を永久に残すことになったのは、この殺戮の知らせを聞いたピカソがただちに描いた傑作「ゲルニカ」によるところとなる。

 私が訪れた43年後のゲルニカは戦争の傷跡などどこを探しても見当たらない平和な町だった。が、広場で談笑しているバスクベレーの老人たちにマイクを向けると、堰を切ったかのようにゲルニカ空襲の様子を克明にかつ感情的に語った。けっして住民は忘れてはいなかった。

 このあと、パリに入り、ゲルニカ報道を聞いたピカソが絵筆をとったというアトリエを取材。さらにイギリスにいる高名な美術評論家ローランド・ペンローズにインタビュー。最後に大西洋を渡ってニューヨークへ行った。実際に「ゲルニカ」が展示されている近代美術館(MOMA)を撮影したのだ。この取材の旅はおよそ一ヶ月半。4カ国に及んだ。その後、幾度となく海外取材に行くことになるが、これほど長い旅はない。
 
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by yamato-y | 2009-11-07 22:32 | 人生にジャストミート | Comments(0)

わが心のスペイン

ある日系義勇兵の死

 王制が倒れて、スペインに共和政府が生まれたのは1936年2月のことだった。その年に日本では2・26事件が起きている。スペインでは選挙で人民戦線派が勝利したのだ。人民戦線派とは当時広がりを見せていたファッシズムに対抗するために反ファシズム勢力が結集して連合した勢力を指す。共産主義者、社会主義者、アナキストなどいろいろな党派の寄り合い所帯であった。それでも共和政府は農地改革や経済の社会主義化などをめざしていたため、王制派にとっては容認しがたい存在であった。

この共和政府が誕生して半年、軍事クーデターが起きた。将軍フランコがアフリカから反乱の狼煙をあげたのである。ヒトラーとムソリーニの枢軸国はフランコを支援する一方、紛争が自国に及ぶことを怖れた連合国たちは不干渉政策をとる。そのため共和国政府は国際的に“孤児”となり累卵の危機になる。

 ファシストの黒い手から共和国政府を守れという合言葉のもとに、世界62カ国から5万人もの若者や知識人が続々とスペインに駆けつける。作家のアーネスト・ヘミングウェイ(『誰がために鐘は鳴る』)やアンドレ・マルロー(『希望』)たちも参加した国際義勇兵だ。フランス1万、ドイツ5千、イタリア3350、アメリカ2800、イギリス2千、カナダ1000、ユーゴスラビア12000、ハンガリー1000、ほか53カ国から5000。世界の国々からスペインを救えと駆けつけた義勇兵たち。このなかにたった一人日系人がいた。ジャック白井である。そのことを石垣綾子から教えられ、私は衝撃で身震いした。

1979年に日系義勇兵の生涯を描いた『オリーブの墓標』と出会う前に、ぼくはジョージ・オーウェルの傑作『カタロニア讃歌』、エンツェンスベルガーの労作『スペインの短い夏』を読んでいて、アナキストの美しい生き方に共感していた。そのアナキストは人民戦線のなかにあってコミュニストと内ゲバを繰り返していた。
だから国際義勇兵はソ連を中心とするコミュニストの統制下にあると知って、私のなかで引っかかるものがあったことは事実だ。だが、他国の革命のために身を投げ打つ国際義勇兵の姿はチェ・ゲバラと重なって、私を魅了した。

 ジャック白井、日本名は不詳。ジャックは愛称であろう。正式のファーストネームは分からない。1911年頃に生まれて、孤児として函館で少年時代を送った。外国航路の船員として世界を転転としたあと、ニューヨークへ密入国。コックとして日系レストランで働いているとき石垣夫妻、イサム・ノグチらを知る。綾子にひそかに思いを寄せることもあった。イタリア系女性と同棲。日本人労働者クラブの一員として数々の争議で活躍し、仲間の信頼を得る。
スペイン内戦が始まると、アメリカ共産党が義勇兵を募ることとなった。白井はその呼びかけに応じてスペインへ赴く。彼が属したのはアメリカ人で結成されたリンカーン大隊。およそ8ヶ月間戦場にあって、1937年7月11日、ブルネテ戦線で戦死した。戦局は共和政府にとって次第に不利になっていく。
首都マドリードは激しい攻防の末、陥落。1939年共和国政府は崩壊した。

このスペイン戦争は、反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のナチス・ドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦の様相を呈した。ヨーロッパの片隅で起きた内乱にもかかわらず、この戦争がヨーロッパに与えた影響は大きく深刻なものとなった。このスペイン革命の栄光と挫折は後にさまざまな芸術に結晶されていく。

 石垣綾子の書を通じて知った白井のことを、私はもっと知りたいと思った。法政大学の川成洋教授が研究をしていると聞き接触をもった。教授から白井に関する貴重な情報をもらった。その情報をもとに、私は「わが心のスペイン~ある日系義勇兵の死」というドキュメンタリー企画を立てて提案することとなる。番組は、唯一人の日系義勇兵として参戦し戦死したジャック白井という人物の追跡を通して、この戦争の推移をたどりながら、今世紀ヨーロッパ文明に与えた衝撃の意味を考えるという趣旨であった。
だが、その企画は認められず、没となった。

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by yamato-y | 2009-10-28 16:44 | 人生にジャストミート | Comments(0)

石垣綾子との出会い

大恐慌のアメリカに生きて

「オリーブの墓標」を読んで、ぼくはこの著者石垣綾子の生涯を知りたいと思った。高齢だがかくしゃくとしていると情報を得た。当時、教育テレビで「私の自叙伝」というインタビュー構成の番組が評判となっていたので、そこへ企画を出し彼女を推薦した。その提案はオーソライズされ、彼女の在米生活とりわけ大恐慌時代の思い出を中心に話を聴こうということになった。ぼくにとって初めての社会派の番組となる。それまで学校放送の音楽番組を制作していたのだ。ぼくは張り切って彼女の人生を追跡した。

 石垣綾子は明治36年(1903)に学者の娘として生まれた。自我に目覚める頃に大正デモクラシーと遭遇し自由の大切さを知る。断髪、洋服姿で歩くと、「オバケ屋敷のオバケ娘」と近所でも評判になった。モガ、モダンガールである。
ところが、関東大震災が起きたあとから世相はすっかり変わる。自由がなくなって息苦しい時代となっていった。そこから脱出したいと綾子は渡米を決意するのだ。結婚してアメリカに行く姉夫婦についてワシントンへ行くが、ひとり離れてニューヨークへ出る。徒手空拳で住み込みで働きながらコロンビア大学へ通うのである。その頃画家として留学していた石垣栄太郎と出会う。栄太郎はグリニッジビレッジに住んでいた。芸術家の溜まり場だった。セオドール・ドライサーやユージン・オニールなどがいて、綾子は自由のアメリカを謳歌することになる。
 その年、1927年に有名な「サッコとバンゼッティ事件」が起こる。ロストジェネレーションの作家たちは街頭に出て抗議活動を行う。この人たちを中心に「ジョン・リード・クラブ」が結成される。石垣栄太郎もその有力メンバーであり、綾子も影響を受けていく。生活はどん底だったが、精神的には充実することとなった。
 1929年、栄太郎と結婚した。その年に大恐慌が勃発する。二十世紀の歴史に残る大事件だ。たちまち街角にブレッドライン(パンの配給に並ぶ列)が出来た。現在の派遣村のようなものだろう。急激にして苛烈な貧困が人々を襲う。
 昨日までエリートだったと思われる立派な身なりの紳士が街頭で林檎を売っていた。木枯らしのビル街でその紳士の握る林檎の赤さが、綾子の目に焼きつく。
《屋台にずっと林檎を並べて、紳士は一個5セントの張り紙をつけて売っていた。その林檎を売りたい一心でハンカチでもって一生懸命磨くのです。並べた林檎がつやつやになっていました。通り過ぎる人たちは食べ物がない職がないと青ざめた顔をしていました。そんななかで林檎の赤いつやだけが町のなかでぱーっと明るさを放っていました。》
 石垣の夫婦のくらしも悲惨だった。毎日コンビーフの缶詰と塩だけのお湯で飢えを凌いだ。栄太郎の絵は売れず、綾子はコーヒーショップの店員や東洋人モデルで家計を助けた。
この「私の自叙伝」のインタビューをした1979年、ちょうど石油ショックが起きていた。戦後の高度成長の歪が現れていたのだ。綾子は大恐慌はこんなものではなかったとショックの違いを語った。たしかにその後石油ショックから日本は立ち直るのだが、そのあとに続くバブルが日本人に自分を見失わせることになるとは綾子も予想はしていない。日本の先行きに対してぼくはもっと楽観的にしか見ておらず、冷戦も永遠に続くとしか認識していなかった。

 この大恐慌の時代に、石垣夫妻はジャック白井に会う。
《ジャック白井といいましてこれは北海道生まれの船員上がりでしたけれども、その人が近くのシマレストランでコックをしていまして、彼が店からコーヒーの缶とかかにの缶詰とかをポケットに詰め込んでもってきてくれた。貧しい私たちにとっては助かった。このジャック白井というのは、後にねスペイン戦争のときに義勇兵として、あのスペインの人民戦線側へ行って、とうとう戦死してしまいました。》
 不況は続いたが、1933年にルーズベルトが大統領になって、ニューディールが始まっていく。これで生活が改善していったことがよほど嬉しかったらしく、綾子は大のルーズベルトびいきになる。彼女は「ローズベルト」と発音した。この頃から綾子はライターとして言論活動を始めるのである。
海を越えた日本では風雲急を告げていた。満州事変が起きて日中戦争に突入していく。この戦争に反対するため、綾子は街頭に出て戦争反対の声をあげるのだった。
《祖国に弓をひくものですから、ずいぶん悪口も言われました。でも私は日本を愛していましたからやっぱり本当の日本が蘇ってほしいという気持ちから反戦活動をしたわけでございます。》
日米戦が始まる前のことだ。アメリカが鉄くずを日本に売ることを阻止するため、ニューヨークの波止場で開かれた集会に綾子は出席する。そして、おおぜいの群集の前で綾子は壇上に上がって日本への鉄輸出禁止の演説をぶつ。日本大使館の関係者からかなり脅されたが、私は信念をもって行動したと、76歳の綾子が当時を思い出してスタジオで力づよく語った。3時間を越える収録にも疲れを見せず、石垣綾子は精力的に歴史の証言をした。
 その石垣綾子の番組の情報を掲げておく。
1979年9月13日、夜7時半から30分、教育テレビ
私の自叙伝「石垣綾子・大恐慌のアメリカに生きて」

それにしても、スペインの義勇兵として戦場に散ったと綾子が証言する、ジャック白井という存在が私には気になった。

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by yamato-y | 2009-10-25 21:14 | 人生にジャストミート | Comments(0)

古本屋の薄暗い電灯の下で

古本屋の薄暗い電灯の下で

 今から30年前、どこの私鉄沿線の駅前にでも一軒ぐらい古本屋があったものだ。
当時、ぼくは結婚したばかりで東横線の武蔵小杉に住んでいた。正確には武蔵中原だが、渋谷から帰って来ると降りるのは武蔵小杉だった。国鉄と共通の大きな改札とは別に東横線だけの南口改札があった。そこを出たところに私の自転車を置いていた。
 南口には線路沿いにキャバレーやうどんやが並ぶ小さな商店街があった。改札に近いところにぱっとしない古本屋があった。大半は雑誌や文庫本ばかりの店内で、単行本の棚はせいぜい4つぐらいしかなかった。単行本といっても梅原猛や森村誠一のような本ばかりで、これといってめぼしいものはなかったが、会社の帰りはまち合わせのためちょくちょく寄った。
 コートを着ていたから冬だったと思う。人通りも少なくなった8時過ぎにその店(名前はとっくの昔に忘れた)を訪れた。ガラス戸を開けると一人だけ立ち読みの中年の客がいた。まっすぐ単行本のコーナーまで歩んだ。『悪魔の飽食』や『隠された十字架』など見慣れたタイトルの背表紙が薄暗い電灯の明かりを浴びて並んでいた。
 棚の上のほうに『オリーブの墓標』と書かれた本があった。著者は石垣綾子とある。本の厚さも大きさも手ごろで、背伸びして私は書棚からその本を抜いた。評論家として石垣綾子の名前だけは知っていたが詳しいことは知らない。テレビで女性の政治参加などを力強く主張する、少しうるさそうな小母さんとぐらいしか認識がない。
 ぱらぱらとページを繰ると、石垣さんは若い頃ニューヨークでくらしていたと記されてある。戦前の大恐慌時代を実際に体験をしたとあとがきにある。スペイン戦争、義勇兵、日系人と少しおもしろそうな話題が目次に並んでいた。 
 ジャック白井という名前が目次に出ていた。どんな人物かとそのページを開く。函館生まれの日本人で密航してアメリカにたどり着いた人物らしい。石垣栄太郎、綾子夫妻と仲がよかったようだ。港近くのレストランでコックをやっていて、ときどき石垣夫婦のもとへ遊びにやって来た。彼は非合法のアメリカ共産党に入党し党員になった。大恐慌後、劣悪な労働環境に対して改善を求める運動に白井は参加していた。
 1936年にスペインで内戦が起こると、アメリカ共産党も共和国政府の側を支持するようになる。やがて、共和国の側の劣勢が伝えられると、アメリカ共産党は積極的に応援することなり義勇兵を送ることになる。そのなかに唯一人の日系義勇兵としてジャック白井の名前があった。この人物の知られざる生涯を描いたのが、石垣綾子著『オリーブの墓標』だ。
 私はすぐに買って店を出た。一刻でも早くその本を読みたかったのだ。

 今となってみれば、この本との出会いがぼくのディレクター人生を大きく決定していくことになる。番組制作人生、最初のジャストミートだった。

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by yamato-y | 2009-10-25 00:01 | 人生にジャストミート | Comments(0)

人生にジャストミート

人生にジャストミート

「課外授業」の主題歌の冒頭に、「縁は異なもの・・・」と歌いだしている。
人生には異な縁というか不思議な出会いというか大切な転轍点というものがある。何度も書いたが、大江健三郎さんと広島の出会いもその一例だ。長男光誕生、広島へ逃避、広島日赤病院で重藤文雄副院長と出会い、光と共生を決意。この重藤文夫との出会いが大江に人生的文学的主題を与えることとなる。大江さん自身、ノーベル賞受賞後にこの出来事を「ジャストミート」と題してエッセーに書いている。

 知らないままに出会っていたという縁もある。
昭和52年、山口の無名校にいた津田投手は球はめっぽう速いが気が弱く、ピンチになるとすぐ崩れるので仲間から「ノミの心臓」と呼ばれていた。その夏休み、東京から6大学のエース早稲田の道方がコーチでやって来た。道方は津田の才能をすぐ見抜いたが、ハートの弱さにも気づいた。そこで一枚のメモを津田に渡した。
「弱気は最大の敵」。ピンチになったときはいつもこの言葉を思い出せと、励ました。朴訥な津田少年はこの言葉を秘めて、その夏の7月、地区大会で完全試合を成し遂げる。ここから津田はプロのマウンドまで疾走していくのだ。
「弱気は最大の敵」という言葉が津田の人生を変えたということは、津田自身も気がつかなかったし、教えた道方も覚えていない。道方が気がつくのは、それから17年経った平成6年のことだ。テレビで「もう一度、投げたかった~炎のストッパー津田恒美の直球人生」を見ていて、道方はあのときの少年だと悟ったのだ。

 出会うこともタイミングが大事だ。
映画雑誌の編集だけでは飽きたらなくなった向田邦子は、シナリオライター集団「Z」に参加する。29歳のときだ。そこでプロのシナリオ作家たちに揉まれて技を磨くのだが、本格的な始動は「Z」の世話人の今戸に森繁久弥を紹介されてからだ。一本書いてみた脚本が森繁の目に留まり、彼のラジオレギュラー番組「重役読本」を書くことになる。さらにテレビの「七人の孫」のシナリオを担当するようになり、彼女は大きな世界へと漕ぎ出していくのだ。

 出会いは片方だけに影響するわけではない。
内田勝が大伴昌司と出会ったのは、内田が少年マガジン3代目編集長になったばかりのことだった。不祥事が続いて2代目編集長が降板したあとを受けての就任で戸惑っていた。が一方ではライバル少年サンデーに対して一矢報いたいという情熱も湧いていた。そこへ現れた大伴はちょうど円谷プロのお蔵に入った特撮映画の企画をもっていた。大伴から内田は一度ぜひ見て欲しいと依頼されて見たのが「ウルトラQ」である。これはいけると直感した内田は少年マガジンで怪獣の特集を巻頭に掲げることにする。ここから少年マガジンの快進撃が始る。同時に、大伴昌司もそのグラフィックな手腕が認められ、巻頭図解のデザイナーとしての頭角をぐんぐん表していくことになるのだ。

ディレクター、プロデューサーの仕事に携わって40年。レギュラー番組を除いて、いわゆる特番を500本余り作ってきた。この数は、同世代の同業者のなかでもけっして少なくない数だと思う。その番組群のなかで、こうして作って来たなかでも、私自身の人生にジャストミートした番組は5本はあったのじゃないだろうか。

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by yamato-y | 2009-10-20 18:55 | 人生にジャストミート | Comments(0)

文学者の死

文学者の死

評論家の川村二郎氏が亡くなった。80歳だという。ずいぶん長生きしたのだ。
私は20年前にこの人にインタビューしたことがある。当時、氏は都立大学の教授であった。東横沿線の下町にある彼の自宅で話を聞いた。
ものしずかな、やさしい声で話す人という印象しかない。

後年、大学を退いてからの活躍はめざましいものがあった。しかも、批評は鋭く、容赦のない攻撃を加えるものであった。私が会った人物からは想像できなかった。
大学の研究者の頃は、ドイツ文学を中心に仕事をしていたと思うが、フリーとなってからは日本の古典に深い造詣を示すようになっていた。

私が氏にインタビューしたのは、芥川賞・直木賞100回という記念番組だった。直木賞は二人の女性ということで話題を呼んだが、芥川賞は誰だったか忘れている。
直木賞の一人は九州にいる杉本章子だった。彼女は大学を出てまもない頃でまだ若かった。今も存命で活躍している。

この両賞を語るのはこの人以外にないと言われたのが、文壇のご意見番永井龍男だった。当時鎌倉に住んでいた。自宅を訪ねて話を聞いた。
朝早く着いたので、しばらく待たされた。30分ほど時間が流れたので、どういうことかなと思って、奥まで入った。そこで頭を梳かしていた永井と目があった。
カミナリが落ちた。
永井龍男も先年亡くなった。
あの番組に出演した文学者はほとんど物故した。九州在住作家、白石一郎も審査員だった藤沢周平もみな他界した。

そのなかで川村氏は長命だった。

余談だが、白石の双子の息子の弟は白石一文で今の流行作家だ。時代は回る。

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by yamato-y | 2008-02-16 12:10 | 人生にジャストミート | Comments(0)

咲く花に

咲く花に

 もみじ山を降りるとき、白いものがちらついていた。
本日も高崎線で事故があって、湘南新宿ラインは運休した。昨日もそうだったのだ。
このところ大宮から高崎で事故が多く、余波が湘南ラインに及ぶ。仕方なく東海道線の満員電車で上京。

渋谷駅から会社までの道で、沈丁花の堅いつぼみを見つけた。そこに小雪が降っている。
ある人の句を思い出した。
咲く花に姿正せと小雪舞う

この句を作ったときのことを作者が書き残している。それによると。
作った場所は、金沢の卯辰山頂の公園である。時は3月、早春とある。
桜のつぼみに時期外れの小雪が降ったのを見て、この句を作ったそうだ。
作者は、岩波書店の前社長、安江良介さんだ。安江さんは書をよくし、句も詠んだ。
この句は出来がいいとは思えないが、いかにも安江さんの生き方を表していると感心した。

花が咲きそうになって一つの完成が近づいたときに、雪が降って、もう一度つぼみからやり直せと言わんばかり。もしくは、咲き誇る前に再度自己を点検して、揺るぎはないか、驕りはないか、誤りはないか、を見つめろという謂ではないだろうか。

戦後民主主義が幾度も困難に遭遇したとき、たえず励まして道を切り開いてきた安江さんの生き方を彷彿とさせる。

安江さんが死去して、青山の葬儀所でお別れの会が行われたときも雪が降った。東京には珍しい大雪だった。金沢生まれの安江さんにふさわしいと思った。この時、弔辞を読んだのは、坂本義和、大江健三郎、池明観の3氏だった。

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by yamato-y | 2008-02-06 11:42 | 人生にジャストミート | Comments(0)

葬儀の通知

葬儀の通知

河合隼雄先生のお別れの会の案内が届いた。
9月2日、京都の国際会館で執り行われると書いてある。たしか、私の予定では8月26日から9月2日までロケだったと思う。お別れの会とロケの最終日が重なっている。残念だが参列できそうにもない。

通知のはがきを見ながらふと思った。
先生は文化庁長官という政治家になった理由はなんとなく分かる気がする。おそらく、心理療法士というものに国家資格を与えるという制度を確立したいと思い、あえて政治に足を向けたのではないか。だから、文部科学省が小学校の現場で「心のノート」をつけたいと言い出したときも、その政治主導の路線にのったのではないか。この心のノートへの河合先生の関与はずいぶん内外から批判されたが、私の知るかぎり先生は弁解も抗弁もしていない。

もし、政治に近寄らなければこんなに早く亡くなることはなかったはずだ。もっと学問的業績を積み上げたはずだ。それが惜しい。まだ、これから先生が解きたいと考えていた主題が5つや6つですまない。ケルトの森で「アナザーワールド(もう一つ別の世界)」という言葉を口にしたとき、その扉を開けて覗きたいと河合さんは考えていたのではないだろうか。心のエネルギーは私たちが想像する以上に巨大で激しいものであると語っていた河合さん。命のやりとりまで覚悟して臨床に立っていたということを、あのときあらためて私は思った。

たくさんの本を書き、おおぜいの人の前で講演してきた河合さんだが、私たちの知らない顔が一つある。精神分析のためにクライアントと向かいあっているときの顔だ。おそらく、クライアントの話を聞くばかりで、例の「ほうほう」とか「それで」とか「そりゃあ、大変でしたね」とか、まるで気の抜けたような相槌のような言葉ばかりだろうが、ある瞬間にあの細い目の奥がきらりと光る、その「時」を私もカメラも見たことがなかった。

そういう顔があるだろうということは、著作から推測できる。先生は未熟な分析者ということを、かなり強い調子で書いていたことからも、治療という場がどれほどの修羅場かということを私達に類推させた。

昨夜、大文字の送り火の生中継があった。コメンテーターに河合さんの盟友、山折哲雄さんがいた。五山送り火はあの世へ死者を帰還させるものだが、日本人には悲しみばかりでないものがあると、山折さんは解説していた。あれは、河合さんのことを思って今年の送り火を見ているのだなと、私は思った。

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by yamato-y | 2007-08-17 08:27 | 人生にジャストミート | Comments(0)


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