定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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カテゴリ:斜陽を考える( 9 )

今夜、再放送します

「斜陽」アンコール放送

10月に放送した「“斜陽”への旅~太宰治・太田静子の真実」が今夜再放送される。
ややこしい時間だが、6日の深夜というか7日の午前1時35分30秒からのスタートである。あ、言い忘れたが総合テレビなのでお間違いなく。

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by yamato-y | 2009-11-06 16:22 | 斜陽を考える | Comments(0)

MC様

アンコール放送を見終えて

本日、午後1時半から「斜陽への旅」の再放送があった。10月4日に放送したところ160件を超える再放送希望があったということで、すぐに衛星第2放送でアンコール放送となったのだ。
反響のなかには50代の人が書いたこんな手紙があった。「私は太宰治の作品をほとんど読みました。若い時代、むさぼるように読み、自ら社会の悲しみや己のもろさに陶酔していました。あれから幾(いく)星霜(せいそう)、激しい現実社会と向き合わざるを得ない中で、私の心から太宰はすっかり影を潜めていましたが、この年代になり、出会える太宰がいるのではないかと思っています。また、本を紐解いてみたいという気になりました。」
この番組を見ていて、不思議な運命を感じた人もいた。「太宰治の新しい側面を見せてくれて非常に興味深かったです。太田静子が書いたものが『斜陽』のベースになっていることも初めて知ったし、その赤ん坊が作家になっていることに不思議さを感じました。」
番組も好評だったところで、とりあえず、この番組にまつわる事実や出来事を整理しておこうという気になった。

昭和20年、7月。三鷹で空襲に遭い、さらに甲府でも戦火にあった太宰治は家族を連れて津軽へ疎開する。敗戦までわずか一ト月前のことである。もどった金木の実家では無聊をかこち、執筆か読書かの日々となる。そこで、書架からチェーホフの『桜の園』を見つけ、むさぼり読むこととなる。『桜の園』は没落貴族の物語である。

敗色が濃くなり、太宰は戦争が終わったあとのことを思い描くようになっていた。支配階級である地主たちは戦後きっと追い詰められ、ギロチンに架けられることにもなるのではないかと、津軽の弟子たちにもらしている。ギロチンは極端としても没落の徒というコンセプトが太宰のなかで広がっていた。
戦争が終り、その年の暮れに太田静子の母が病死した。その報告を静子は津軽の太宰にしたことから二人の文通が始る。それぞれ5通、計10通の会話が交わされる。太宰の5通は静子が大切に保管したため、今回の番組でも実物を撮影することができた。静子の手紙は失われているが、その内容は、静子の著書、「あはれわが歌」に書かれて残されていた。

太宰の手紙が意外なぐらい凡庸に比べて、静子の手紙はきらきらと輝いている。静子の2通目の手紙は大胆不敵にしていじらしい。
《しばらくご無沙汰申し上げておりましたが、その後、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか。売るもののいよいよなくなり、私もこれまでのような生活をつづけることは出来なくなりましたので、それでこれからの私の生きてゆく道を3つ考へました。
①私より若い作家と結婚して、マンスフィールドのように、小説を書いて生きてゆく生活
②私をもらってやろうとおっしゃっる方のところへ再婚して、文学なんか忘れてしまって主婦として暮らす生活
③それから名実ともMCさまの愛人として暮らす生活。この3つのうち、一つを選んですすみたいと存じます。この3つのうち、どの道が一番よろしいでしょうか?MCさまに尋ねてみて下さいませ。
太宰治様 、私の作家マイ・チェーホフ・MC。》
東大の小森陽一教授も、この静子の言葉による勝負を高く評価しているが、その表現においても、静子の並々ならぬ才能が見てとれる。
名宛のMCはマイ・チェーホフの略。太宰治様イコール私の作家。私の作家イコールマイ・チェーホフ。マイ・チェーホフイコールMC。つまりMCイコール太宰治様だ。その本人に向かって書いている手紙のなかで、静子はMCが第三者のような振りをして太宰の真意を問うのだ。この芝居じみた文章作法に、太宰は面白がらずにいられない。
 後に、太宰が「斜陽」を書き上げたとき、最終場面で主人公のかず子の手紙を導入する。これは太宰のオリジナルである。その手紙の末尾の名宛にMCとあって、括弧してマイ・コメディアンと振ってあるのを発見したとき、私は太宰の洒脱な精神に驚愕した。太宰は静子に向かって、私はピエロだよとおどけて答えたのだ。

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by yamato-y | 2009-10-17 19:24 | 斜陽を考える | Comments(1)

太宰のつづき

太宰のつづき

 太宰は若い日精神病院に入れられたことが大きな傷になったという。放埒と自殺未遂を繰り返す彼を、周りが危ぶんで措置したと思われるが、当人にとっては心外だったらしい。今も、当時のカルテが残っているようだ。読んでみたいものだ。
はたしてこの措置は太宰が抗議するように不当なことであったのだろうか。”冤罪”とみなすことが正しいのだろうか。

病跡学というのがあって、病気の跡をたどる学問を指す。そこでは、太宰は分裂症、神経症の跡が明白だと扱われているそうだ。正確には自己愛性パーソナリティ障害を患っていたという。誤解を招くといけないから、一言加えると、これは断定でなく、そう見られているということ。病跡学の研究者は太宰を診断したわけではなく、彼の作品、行動からそう類推しているのだ。だから、実際の診断はどうであったか、カルテを見てみたい。
 精神科医の米倉育男によれば、この障害のなかでも太宰は「操縦型人格」ではないかとみられている。自己中心的で自己愛を満足させるためにのみ他人と付き合うというタイプだ。この人格は、他人に軽蔑感を抱いているが、表面的には親切で暖かみがあり、人の気をひいたり操縦したりする。つまり、周りを翻弄するのだ。

太宰が太田静子と結ばれて1ヶ月、ふらりと静子の山荘に現れた太宰は、静子から妊娠したことを告げられる。いいことをしたといって静子を抱きしめるが、一方、「これで静子とはいっしょに死ねなくなった」と淋しく笑う太宰。
このあと、太宰から静子への連絡がぷっつり切れた。
それから3ヶ月後、静子は堪えきれず三鷹の太宰を訪ねる。ところが太宰はよそよそしかった。彼女のほうをほとんど見ないで、仲間と酒を呑んでばかりいた。最後に、三鷹の知人宅によって、太宰は静子の肖像画を早描きしてみせる。画に残された静子は泣き顔だった。太宰は静子の気持ちを知りながら邪慳にしていた。このとき、静子のおなかは大きくなっていたはずだ。

太田治子さんは、この太宰の最後にとった態度は判るという。『斜陽』を書き上げた太宰にとって、静子とのことは終わったのだからだとみなす。そして、静子への決別のメッセージは、斜陽の最終場面、主人公かず子の手紙というかたちで、太宰は書いた。そこにすべてがあると治子さんは見る。そうやって、かず子の手紙を読むと、なるほど太宰が静子とそのこどもに宛てた思いがなんとなく判る気がするものの、しかし、勝手な言い分だなと思う。これが無頼派と呼ばれる文学者の所業だと文学史は語って来たが、しかし太宰が障害をもっているとなると、評価もまた違ってくるのではないか。否、そういう形而下の問題ではないのだろうか。

ところで。『女学生』然り、『キリギリス』然り、一人称文体のこれらの作品群は私小説の範疇に入るのだろうか。先日死去した庄野潤三なんて作家は私小説作家といえるのだろうか。私小説なんて、小林秀雄の批判で終わったというが、なかなかしぶといぞ。私は、太宰は花袋、岩野泡鳴、藤村につながる私小説系と見ているのだが。
などということを、昨夜からつらつら考えて来た。

明けて、日曜日。今朝も蒸し暑い。昼から、京都のマンガミュージアムに向かう。明日の本番に向けての準備が今夜から始まるのだ。そろそろ、頭を切り替えて、宮崎駿、養老孟司両氏のことを考えなくてはなるまい。このお二人は今保育園ということにいたく関心があるそうだ。なぜ今保育所なんだろう。その疑問をかかえて、昼からの新幹線に乗る。

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by yamato-y | 2009-09-27 10:33 | 斜陽を考える | Comments(0)

アハレ ワガイノチ

アハレ ワガイノチ

太宰の『斜陽』が単行本として出版されたのは昭和23年。私の生まれた年だ。戦争が終わって3年。社会はまだ不安定だった。
当然、敗戦の混乱は続いていた。民主化という言葉が太平洋の向こうからやって来たけれど、実感としておおぜいの人たちは掴めなかった。労働組合の声が大きくなったり、戦犯追放とか農地改革などが推し進められたが、人の生き方としての民主化まではまだまだ実現化することはできなかった、ようだ。

たしか、黒澤明の「わが青春に悔いなし」が封切られたのも23年だったはず。そこで描かれた原節子の演ずるヒロインは、”封建的”な社会、地域に抗って生きて行く姿を描いている。今の私たちの目から見れば、これほどのことがなぜ問題になるのだろうかと思うが、女性が発言したり行動を起こしたりすることは、当時の情勢ではかなり厳しかったにちがいない。

そんな時代に、旧華族の娘が妻子ある男と関係をし、未婚で子供を作ったという物語は、とても大胆で新鮮にみえたにちがいない。「斜陽」の造形は、太田静子というモデルがあってこそ生まれた小説だ。この静子という女性の人生がこれまであまりにも過小に評価されてきた。今回、私たちは彼女の生き方に注目し、太宰と静子の子である太田治子さんが、二人の生き方を批評的に見つめる。

10月4日の放送をごらんいただければ、二人の生き方の詳細は判ると思う。太田静子は戦時中下曽我の山荘にこもって、貴婦人である母と浮き世離れした生活を送っていた。その日常を日記に綴っていた。それが、後年、『斜陽日記』として発刊されるものだが、この日記を下敷きにして、太宰は『斜陽』を描いた。『斜陽』の第一章、二章は、日記のほとんど引き写しに近い。それほど、静子の日記は魅力的だったのだ。文学を愛し、ローザ・ルグゼンブルグの革命理論に萌える静子。前衛短歌を詠み、チャイコフスキーを愛ずる静子。銀座を闊歩しフランス語を学ぶ自由人だった。ある意味では、太宰よりよほど過激な精神の持ち主ともいえる。

二人は文通していた。あるとき、静子は自分の将来について太宰に尋ねる。1つは若い文学者といっしょになるくらし、2つは堅気の男に再婚するくらし、3つめは妻子ある作家の愛人となって生きるくらし、このどれを選べばいいでしょうかと、静子は太宰に言葉の刃を突きつける。

それを読んだ太宰は、すぐ電報をうってくる。「アハレ ワガイノチ」

今回の番組では、この事実経過は押さえているがこの太宰の電報の意味については深入りしていない。私はずっとこの文面が気になっている。静子のまっすぐな求愛に対して、はぐらかすような文面。だが、もし静子をなだめるだけなら「アハレ イノチ」でいいではないか。なぜワガイノチとしたのだろうか。大好きな家族もありながら、別の女性とも交情をもとうとする自分を、感傷的に哀れんだのであろうか。もしくはイノチとは静子のことで、字義どおり、思い詰めている静子のことをアワレと思ったのだろうか。
いや、ひょっとすると、思いつきで気のきいたセリフとして、若い女の気を惹こうとした台詞なのか。

今回番組を制作しながら、あらためて太宰の言語感覚の秀抜に目をみはる。静子への「ラブレター」に出て来る文言。好きな女に向かって、あなたは私の「憩いの草原」だと記すのだ。こういう用例はない。同時代の横光利一や織田作、中原中也らとシノギを削っているなかから生まれてきたのだろうか。

カタカナ使用で、私が一番好きなのは「右大臣実朝」の一節。
アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。



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by yamato-y | 2009-09-26 13:18 | 斜陽を考える | Comments(0)

夢のをわりの花りんご

夢のをわりの花りんご

ふるさとは夢のをわりの花リンゴ 二六斎

この句を詠んだ二六斎宗匠の元へ、西国に住む弟子から深夜電話が入った。酒席からの電話らしく、いささか彼の感情は過多となっていた。彼はこの句を読んで、幼い頃に亡くした母を思った。母につながる思い出が甦り、「この句には泣かされますよ」という言葉を電話口で繰り返した。その熱い思いに宗匠もついほろり。弟子と師匠の共泣き。

こんなケースもある。師匠は太宰治、弟子は野原一夫。昭和22年の出来事である。学生時代から太宰に傾倒していた野原は新潮社の編集者となって太宰の前にいた。乱れた生活がたたり、当時の太宰の体調は芳しくなかった。時に軽い喀血もあり精神も不安定であった。影のように山崎富栄が付き添い看護していたが、それでも危うかった。むしろ、富栄との抜き差しならぬ関係が太宰を追い詰めていたのかもしれない。
ある日、野原は思い切って太宰に哀願した。「先生、養生してください」太宰は野原の顔を無言で見た。「みんな、心配しているんです。だけど、先生に面と向かって言うのが、どうも、なんだか、・・・・」
野原の言い方が切羽詰っていたのだろう。いつもなら茶化す太宰が席を立って、廊下へ出て行った。そのとき、圧し殺したような太宰の泣き声を野原は聞いた。野原の目にも涙があった。この1年後に太宰は長雨で増水した玉川上水に富栄とともに身を投げる。

今年は美空ひばりの節目の年でもある。祥月命日にあたる6月には特番が相次いだ。20年前、彼女が“急死”したとき、「ひばりの時代~日本人は戦後こう生きた」という3夜連続の特番に私はディレクターとして参加した。私が担当したのは第一回「廃墟のなかの悲しき口笛」で、彼女のデビューした時代を描いた。この番組は、ひばりの歌を同時代として生きた民衆の記憶を引き出すという仕掛けをもっていた。彼女の歌にまつわる思い出をもった人々を取材することになり、私は弘前へ飛んだ。ひばりが映画女優として力量が認められた作品「リンゴ園の少女」にまつわるエピソードを掘り起こすためだ。この映画のロケは岩木山を望む弘前郊外のリンゴ園で行われた。今をときめくスターの到来とあって、この映画のロケにはおびただしい数の見物人が集まった。その思い出を、リンゴ園の園主須藤真利さんに語ってもらった。最後に、一番好きなひばりの歌を歌ってほしいと頼んだ。当然、「りんご追分」を歌うと私は期待した。

ところが、彼が歌った歌は、「津軽の故郷」であった。70歳を越えていたと思うが、彼は背筋をぴんと伸ばし、岩木山に向かって朗々と歌った。
♪りんごの ふるさとは
北国の果て
うらうらと 山肌に
抱かれて 夢を見た
あの頃の想い出 あゝ今いずこに
りんごの ふるさとは
北国の果て

花りんごの句を詠んだ二六斎宗匠も弘前出身で故郷は津軽。太宰も金木町という津軽。この句を味わいながら、太宰を思い、津軽を懐かしみ、ひばりの「夢のをわり」を惜しんだ、というわけ。


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by yamato-y | 2009-07-02 12:32 | 斜陽を考える | Comments(0)

三鷹禅林寺

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三鷹禅林寺

生誕100年ということで、昨日の三鷹禅林寺の境内はたくさんの太宰ファンが押しかけた。テレビカメラだけでも10クルーはあった。
訪れた人の顔を見ていると、60代以上の男女が3分の2、若い人、特に女性が10パーセントといった割合だろうか。お寺の裏にある墓地にはおびただしい人が墓石の前に陣取っていた。
私は初めて参加したが、なんとなくこの桜桃忌の催事は太宰治にはふさわしくないような気がした。いちばん面食らったのは、太宰と掘り込まれた墓石にさくらんぼを埋め込むことだ。いくら桜桃忌だからといって、それはないじゃないの。なんだか、直方体の墓石がロボットになったみたいで厳かさもへったくれもあったものじゃない。道化を演じきった太宰ならそれもいいではないかという意見もあろうが、私は見たくない光景だった。

桜桃忌というのは、太宰の友人知人たちが始めたものであって、禅林寺にはまったく関係ない。だから、寺内の集会室のようなところで、太宰をしのぶ会が行われたが、どうやら関係者が仕切っているようだ。太宰の最後の弟子という人の「思い出話」が話されていたが、講演の途中で主催関係者が、大きな声で「写真を撮らないように」と制止する声が不快だった。「ケータイが話しの途中で一人でも鳴ったら、この会はすぐ中止しますから」と居丈高なものいい。なんだか、太宰のイベントを行うということに優越の意識をもっているようだ。

山門のところには、新しく発刊される太宰の選集の宣伝ビラを配る人や三鷹観光協会の「太宰ゆかりの場所」というチラシを配る人がたむろしている。ゆかりの場所のチラシには、太宰が居住していた跡、情死して発見された場所、山崎富栄の下宿などがコースとして記されてあった。だんだん私は不愉快になってきた。
早々に寺を離れ、三鷹駅に向かう。途中、古書店には太宰本がずらりと並べられ、酒屋には太宰生誕100年記念の青森産日本酒のビンが店頭に配置されていた。

夜9時のニュースでも、この日の様子が企画として流されていた。

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by yamato-y | 2009-06-20 08:34 | 斜陽を考える | Comments(0)

夕闇のなかの大雄山荘

夕闇のなかの大雄山荘

国府津のインタビューを終えたのが5時。車で下曾我に向かった。日はまだあって、梅雨晴れの青空が広がっていた。山陰の道をうねうねと登っていくと、曾我兄弟ゆかりの城前寺があって、その門前を抜けて、山里に入る。梅林のなかに農家が点在する。突き当たるとT字路になっていて、その右側に大雄山荘があった。

戦争が始まった頃、太田静子は親戚の紹介を得て、小田原下曾我のこの地に母と共に移り住むことになる。この地の分限者が金にあかせて作らせた中国風の洒落た別荘で、建物は当時のままであるが、住む人が絶えて20年、塀内はすっかり荒れ果てている。板塀は前に傾き、庭は草が茫々。軒先にはくもの巣がいたるところに張られ、樋には落ち葉がたまっていた。さるすべりやケヤキの木が大きく茂り、鬱蒼としている。玄関の前には2頭の石の羊が並んでうずくまっている。これだけが往時の華やかさを伝えている。
百日紅(さるすべり)を見ながら、太田静子は太宰治に、太宰さんはこの百日紅のように複雑といったかひねくれているといったかはっきりしないが、そう言ったそうだ。治子さんが母太田静子から聞いている。それを聞いた太宰は苦笑していたという。

この建物に太田静子は昭和19年から26年まで住んだ。23年に娘治子が産まれ、彼女が3歳までこの山荘にいたのだ。久しぶりにこの地を訪れた太田治子さんは懐かしそうに中国風の冠木門の柱を触れ、さすっていた。彼女はここにあった池に落ちた思い出をもつ。その池も今は土砂に埋まっている。

この山荘の向に農家がある。西久保さんの家で、太田母子とも親しかった。当時のことをご主人に聞いた。『斜陽』では主人公かず子が小火(ぼや)騒ぎを起こすが、これは実際にあったことだ。静子が風呂を沸かしているときに起きた。灯火管制下だったので、近隣の人も巻き込んで大騒ぎとなったのだ。その出来事を西久保さんはよく覚えていた。焼け跡の焦げ目は今も建物に残っているそうだ。わが取材班は敷地のなかに入ることは許されていないので現認したいが叶わない。

少年だった西久保さんが覚えているのは、いつも歌を口ずさみながら陽気に掃除をする太田静子の姿である。戦後はずっと机の前に座ってモノを書いていたということが忘れられない。古いアルバムを取り出して、当時のことをあれこれ話してくれた。インタビューが終わってから、西久保さんの奥様が梅ジュースと取れたてのプラムをご馳走してくれた。よく冷えたプラムはジューシィで甘く美味であった。

西久保さんのインタビューを終えて外に出ると、夕闇が迫っていた。大雄山荘は夕暮れの薄日のなかでぼんやりと建っている。半ば朽ちたその姿ではあるが、ある種の神々しさを漂わせていた。

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by yamato-y | 2009-06-18 22:15 | 斜陽を考える | Comments(0)

国府津の海で

国府津の海で

大磯から小田原方向へ東海道線で2つ行ったところに国府津がある。国府津館は駅を出てすぐの国道に面している。裏は相模灘。外観は平屋だが、母屋が坂に建っているから国府津館は3階立て構造と言えるのではないだろうか。奥座敷で太田治子さんのロングインタビューが行われた。
かつてこの旅館で太宰治と太田静子が逢瀬を楽しんだ。ここで、『斜陽』の原案ともいうべき太田静子の「斜陽日記」の受け渡しをめぐって二人の間に話し合いが行われた。そのゆかりの場所で、二人の遺児である太田治子さんにインタビューした。

当時、静子はこの国府津から御殿場線で一つ行った下曽我に母と住んでいた。伊豆の知人を訪ねたりかつて住んでいた三島へ行ったりする太宰には途中駅が国府津であった。二人にとって知人がいない国府津は格好の場であったのだろう。

二人が出会ったのは、戦争が始まる昭和16年の夏。文学少女だった静子が二人の文学仲間とともに、三鷹の太宰の家を訪ねたことから始まる。彼女はかつて自分の娘を失ったときのことをまとめた「赤いバラ」という小文を見てもらうためであった。感覚的な文章で浮世離れした作風が特徴だった。一読して、太宰は、なかなか面白そうだと思うがあなたは体が弱そうだから小説を書くには向いていない、このまま日記を書き続けることですといって励ました。それを真に受けて、静子はせっせと日記を書いた。当時、静子は出戻って母と二人で大岡山に住んでいた。

戦争が始まり、静子は親戚の紹介を得て、小田原下曾我の山荘に移り住むことになる。その山荘を太宰が最初に訪ねたのは昭和19年の1月のことである。一泊したものの何事もなく二人の関係は戦争が終わるまで途絶えることになる。
昭和20年4月、三鷹にひとりいた太宰は空襲に遭遇。家族が疎開している甲府へ引き込むことにした。そこでも空襲に遭い、ついに故郷の津軽に家族を惹き連れて行く。そして敗戦の混乱のなか、東京へ舞い戻るのが昭和21年晩秋。太宰は再び三鷹に住む。
一方、静子は昭和20年12月に母のキサを失った。下曽我でたった一人になったのだ。

そして、太宰が下曾我の静子の家に、「日記」を受け取るために現れたのが、22年2月だった。それから5日間、太宰は静子の山荘に泊まりつづけている。そして、静子の日記を受け取った太宰はその足で伊豆に向かい、そこで執筆するのだ。『斜陽』の第1、第2章で、太宰は凄いスピードで80枚を書き上げた。静子の日記を土台にしての物語化だから早かったのだ。
その後、太宰は山荘を3月7日、3月17日と続けて訪ねている。この交わりのなかに、国府津館があった。

現在の国府津館も昔ながらの風情を残していてなかなかいい。風呂場ものぞいたが、広々とした湯槽にたっぷりの湯量があった。全室和室で、ドアの部屋はない。部屋からの風景も素晴らしい。ただ、裏に西湘バイパスが通っていて、ひっきりなしの車の音だけが興ざめとなる。

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by yamato-y | 2009-06-18 14:35 | 斜陽を考える | Comments(0)

太宰のことを考える

かしいでいる人

 母が太宰治に関する日経新聞切り抜きを見せてくれた。太田治子さんが太宰の『斜陽』について語った記事だ。タイトルは「娘が読む太宰文学」(2009年3月12日)とある。なかなか読み応えのある記事だった。

 太田さんは、太宰の作品の特徴はかしいでいる人を描くところにある、と見ている。エリートのように揺らぎのない人生でなく、屈託し行き悩むような人の生きかたをかしぐような人という意味で太田さんは考えていて、そういうかしぐように生きている人物を太宰はとりあげてきたと見ているのだ。
 たしかに、「人間失格」のようにたえず生き方においておどおどして調子よく生きられないような人を太宰は好んで描いてきた。今風の言葉で言えば、「負け組」の人生だ。それをかしいでいる人とすくい取る。太田さんの言葉の選び方、太宰文学の急所の捉え方に感心する。

 だが、太宰はそのかしぐ人を負け犬のようにしては描かない。そのかしいでいることを運命として受け入れるわけでなく、むしろ呪詛しそこからしたたかに反発する人物として描くのだ。
「札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良。私は、その十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。万人に非難せられても、それでも、私は言いかえしてやれるんです。お前たちは、札のついていないもっと危険な不良じゃないか、と。おわかりになりまして?」
このねじくれた感情。ここに万人は太宰文学に惹かれるのではと、太田さんは考えている。

 話は変わるが、猪瀬直樹は『ピカレスク(悪漢小説)』において、太宰は悪人を演じてきたと喝破した。猪瀬独特の反語的な言い回しであるとしても太宰を悪人として捉えるのはやや浅いと思われる。太宰は悪人というより不良、札付きの不良というべきではないか。生まれついての悪人でなく、環境や時代により心ならずもかしいでいることを強要されて、挙句に不良になった人格と見るべきではないだろうか。

 これから4ヶ月にわたり、太宰治について考えていく。主に『斜陽』をめぐっての太宰論になるだろう。その取材メモや文学の見方について、ここでも項目を立てて書いていく。
太田治子さんの「娘が読む太宰文学」については、まだ続けて書いていくつもりだ。

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by yamato-y | 2009-05-26 15:04 | 斜陽を考える | Comments(0)


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