定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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カテゴリ:冬のソナタを考える( 17 )

みんな忘れていない冬ソナ

冬ソナの講演

秋に関西のある会合で冬ソナについて講演してくれないかと、依頼を受けた。7年経っても冬ソナへの関心は高いのだ。そこで、私は頭をひねった。
永遠の「冬のソナタ」~メロドラマの真髄を語る~という演題でどうだろう、と主催者に打ち返した。 
                   
「冬のソナタ」の魅力はメロドラマであること。これに尽きる。

メロドラマとは、事件、事故、病などによって物語が衝撃的に展開する手法で、観客はそれによって情緒を揺さぶられ深い感動を得る。
このスタイルは19世紀のイギリスで流行り、その後アメリカに上陸し、映画やテレビに広がっていった。

 主人公のユジンは、仕事の相手が初恋の男チュンサンにそっくりの男ミニョンと知って恐れ慄いた。運命的なものが近づいていると直感で知ったユジンは避けようと、その仕事から降りようとする。
が、運命は二人を皮肉にもさらに引き付けさせていく。しかも親友チェリンの悪意によって、ユジンは苦境に立たされながら、そのことが返って二人を引き寄せることになる。そういう運命の流れにユジンは大きな不安を抱く。運命の愛が近づいているとユジンは直感するが、そのことを婚約者であるサンヒョクには言えない。言えるはずもない。

避けようと努力して避けることが出来るぐらいなら、運命の愛ではない。一直線に繋がるのではなく、禍福があざなわれて、運命は少しずつ二人をからめとっていく。それが「冬のソナタ」の真髄。

というようなことを語ろうと思うのだ。
ずいぶん以前に購入したピーター・ブルックス著『メロドラマ的想像力』を、再度引っ張り出して読むことにしよう。メロドラマこそが西洋近代文学においてもっとも重要なモードであると指摘する本書は、1976年に発表されるや、たちまち英語圏の比較文学と映画研究の分野に大きな衝撃を与えたと言われている。

私も、ちょうど「冬のソナタ」特集に関わっていた時期で、すぐ手にとって読んだのだが、細部はかなり忘れているから、もう一度読みこなして、再度冬ソナ論をしっかり構築しよう。


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by yamato-y | 2011-04-25 16:09 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

冬の終わり

冬の終わり

風は冷たいが、どこかから沈丁花が匂ってきた。春遠からじ、だ。
昨夜、冬ソナの最終回を見終わった。1月末からおよそ1ヶ月かけて、10回目の視聴となった。回数を重ねると、作品というものはボロを出すものだが、この作品については小さな瑕疵があっても気にならない。2004年放送当時、ドラマ関係者からずいぶん技術的な瑕疵を責められたことを思い出す。カメラが揺れて画面がブレているのを平気で使っている、マイクの見切れが残っている、音楽処理がアバウト、などなどである。それを聞いて私は、「それが、何か?」と思っていた。そんなことなどどうでもいい。ドラマが生きていればいい。日本の当時のドラマは絵作りとか音楽の出し入れのタイミングとか、衣装とか、色使いとかばかりこだわっていて、物語の勢いとか滋味のあるセリフとかが失われていて、ドラマの醍醐味がまったく消えていたから、私は専門家といわれる人たちの意見に耳を傾ける気にならなかった。

20話、最終回。別離から数年経って、「不可能の家」で再会を果たす場面。目が不自由になったチュンサンの「どなたですか」と問いかけるシーン。絶句して見つめるユジン。幾度見ても感動する。ただし、この場面の絵姿だけがいいと言っているわけではない。その前の、島に二人が別々に訪れているところからの盛り上げが実にうまい。さらに言えば、18話あたりから最後に向かっての大きな流れの作劇術に感心する。この優れた演出を、日本のドラマ関係者たちは長く軽侮してきた。テレビドラマのノウハウは先進地のこちらにあるのであって、後進のアジアはそれを真似していると見ていた。そういう声をたくさん当時聞いた。

「なぜ取り調べにはカツ丼が出るのか?」というテレビドラマの分析を専門にしている人が書いた新書にも、先に述べたような偏見が混じっていた。冬のソナタの魅力は何かということに対して、著者は「新しくない」ことだという。言外に、冬ソナで使われた作劇は、もっと前に日本でもやったということを意味している。視聴者から寄せられる声は「懐かしい」というフレーズが多かったことが、それを証明していると言わんばかりの筆致だ。この見方に、違和感をもった。この新書はドラマはベタな表現で形成されているということを眼目にしているので、冬ソナもその例だと決めつけたかったのだろう。
冬ソナのヒットを支えた30代以上の女性が、ずっと昔の80年代90年代に見た、日本の少女マンガやテレビドラマのベタな物語を、冬ソナは踏襲していると著者は考えている。だから、このドラマを見たときに昔を思い出して懐かしいと感じたというのだ。

視聴者から届いたはがきや手紙を私は、「冬のソナタにようこそ」という番組を作るにあたって膨大な数読んだ。そして、そこにある「懐かしい」という声は、かつて見た(日本の古い)ドラマのようなという意味ではなかったと感じている。そういう声はせいぜい40代以下の人たちで、例えば、「キャンデイ・キャンデイ」のようだ、「赤いシリーズ」みたい、という人が少数いた。ほとんど30代である。
だが、大半の、特に年配の大人たちの声は、純愛を一途に信じていたあの(自分の青春)時代が懐かしい、帰りたい、と言っていたのだ。ドラマの古臭い手法が懐かしいなどという声ではなかったのだ。
80歳の女性が書いていた文面、「私は恋する80歳の乙女です」という言葉が忘れられない。

どうも、冬ソナを軽んじたり無視したりする人たちは、日本でも昔流行った手法ですよと言わんばかりの優越意識が垣間見える気がしてならない。私は、これはユン・ソクホという希有な才能が打ち立てた「手法」だと考えている。そのことを、いつかきちんと証明したいと願っている。

 さて、冬ソナ最終回の副題は、「冬の終わり」。アメリカに旅立つチュンサンが別れを言いにサンヒョクの勤めるラジオ局にやって来る。ふたりは屋上にあがって、冬の空が終わって春の空になっていくことを惜しむ。「この国の冬の空が好きだった」というセリフは、3月2日の今こそ相応しい。こういうさりげないセリフのひとつひとつが本当に素敵だ。

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by yamato-y | 2011-03-02 18:52 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

冬芽のときに

冬芽のときに

寒い日が続いている。東京は2月がいちばん寒いのだとあらためて思う。
裸木となると、鳥の影がよく見える。今朝も家の前のポプラの大木の梢にちらちらするのが目に留まり、双眼鏡を向けた。めじろだった。黄緑色の羽をたたんだめじろがせわしく枝を行き来していた。鳥をみつけてスコープをのぞいていると得をした気になる。

出勤の途中、児童公園の園木に冬芽をみつけた。白い綿毛がぼーっと揺れていた。もうすぐ春。こんなに寒いけど、春の準備が始っている。
現在の私も冬芽状態だ。4月からの新しい年度での企画を実現するべく、取材、リサーチ、折衝と、直接番組とは関係ない仕事に追われている。これといって予定をもたないまま、デスクに座ると、あちこちから電話が入り、その対応に応じているとすぐ夕方になる。資料を読む込むこともできないまま、家に戻り、夕食後から就寝までの4時間ほどがその時間にあてる。ざっとこんな暮らしが1週間続いている。

昨日、久しぶりにぺ・ヨンジュン、チェ・ジウ両氏の話が私の元に来た。新潟震災のときに、すぐ義捐金を拠出してくれた二人を紹介したいのだが、その写真使用の許可どりをどうすればいいかという問い合わせである。それぞれの事務所の連絡先を教えた。ちょっと気になるのは、ぺ氏の消息が全然伝わってこないことだ。病気でもしているのだろうか。

そういえば、4年前の今頃、私はスタッフを連れて、春川に行った。寒い冬の日だった。ナミソムの早朝のロケは、人っ子一人いない荘重な風景を独占できて満足だったことを覚えている。だが、冬ソナはまだ大きなブームにはなっていなかった。私たちが春川の目抜き通りでロケをしていると、日本の放送局が取材をしていると、地元のテレビが逆取材して話題になるぐらいだった。その後の大ブームを考えると、信じられないくらい小さな出発から「冬のソナタ」は始ったのだ。

私の幼い頃には、韓国は戦争で山が焼けて禿山ばかりだと聞かされていたが、実際の朝鮮半島は緑の深い谷があちこちにあることを知って感動したものだ。

前にも書いたが、春川はこのロケの2年前に行ったことがある。そこの大学に池明観先生が日本研究の主任としていたからだ。そのときに見た春川は軍事基地の町だったから、自然の美しさなど目に入らなかった。あの町を舞台に、ユンさんはよく考えたものだと、今となって感心する。「冬のソナタ」は冬に考えるのがいちばんいいようだ。

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by yamato-y | 2010-02-16 11:52 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

ハルキとダザイと冬ソナと

ハルキとダザイと冬ソナと

昨夜から村上春樹にいかれている。短編の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」「レーダーホーゼン」「TVピープル」を続けて読んだ。だんだん村上文学に惹かれている。のめっている。
朝起きて、内田樹の『村上春樹にご用心』が本棚にあったことを思い出して、取り出し読みふける。内田は日本の文壇がハルキを無視、否定する傾向こそ村上の作品が世界文学たりうると、熱く説いている。ハルキの文学の骨頂は「父の不在」とあった。意味深な言葉である。内田はハルキファンは冬ソナファンとかぶるのじゃないかと、仮説を立てている。チュンサンとユジンの間には、まさに「父の不在」が横たわっているじゃないかと、思いもつかない説を、内田は提供してくれる。

懸案の(私は今「斜陽論」を担当している)テキスト、「斜陽日記」を読み始める。ダザイの「斜陽」との比較をするつもりで読み始めたのだが、共通点より相違点にばかり目がいく。ダザイが独自に作り出した表現にばかり目がいくのである。「斜陽」に登場する嫌な作家上原は、ダザイの自画像だろう。そのデカダンが気になって仕方がなく、昨日購入した『人間失格』をカバンのなかから取り出して読むことにした。
べたりと張り付くような自己嫌悪の所行の数々。ここまで卑屈にさせていくものは何で在ろうかと、かまととぶってダザイさんに聞きたくなる。下男や下女にされた犯罪的行為とは何だよ。
9時半から10時半まで、『人間失格』を読んで、ふたたびハルキに戻る。

猫ワタナベ・ノボルが消えた路地。入り口も出口もない、近所の人が便宜的に「路地」と呼んでいるにすぎない。家々の裏庭を縫うようにして約200メートルほど続く。ここに主人公の猫が出入りしていたというが、行方不明となった。探しに行っても見つからず、途方にくれて家に戻り、妻から小言を言われて、物語は終わる。

ここで終わるのか、そりゃあないだろう。と抗議してもハルキは知らん顔。この愛想なしが、今朝の私に心地よい。
たしか、この短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」が発展して、長編「ねじまき鳥クロニクル」になったはずだ。そちらは、すいぶん以前に読んだ。その際は「路地」は気にならなかった。ノモンハンと井戸ということだけが心に残ったが、はてどんな物語だったっけ。もう一度、読みたい気分に今駆られている。

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by yamato-y | 2009-07-19 12:11 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

テロップか吹き替えか

テロップか吹き替えか

冬ソナの第14話「2度目の事故」を今見終えた。
ミニョンの正体がチュンサンだと、ユジンも気がつき、アメリカに去ろうとするミニョンを飛行場まで追う。
連れ戻して一夜を送ったあと、ミニョンは黙って部屋を出て行く。気づいたユジンがチュンサンを追いかけて車に轢かれそうになるところをチュンサンがかばって2度目の事故に遭遇するのだ。

主人公の二人が真実を知る度に涙を流す、激変の巻である。俳優の口を借りて語られる言葉の美しさと豊かさ。
これは日本語が吹き替えでないと分かりにくいと思う。字幕をオープンにしたまま吹き替えで見ると、いかに字幕の情報量が少ないかが分かる。粗筋は分かっても微妙な言い回しで長く表現する場面などでは、やはり吹き替えのほうがよく伝わる。

だが、周辺の女性ファンに聞くと、吹き替えの評判はよろしくない。オリジナルの役者の声質と日本の吹き替えを担当する俳優との間に差があって、どうにも生理的に嫌だというのだ。たしかにペ・ヨンジュン氏やチェ・ジウ氏の原音でドラマを味わうほうが本物らしいのだが、この「冬のソナタ」は言葉の表現、言い回しがかなり大切な役割を果たしているだけに、情報量の多い話し言葉に、私などは依存したくなる。

冬ソナの絵が美しいという評判はよく聞くが、ユン監督はいわゆる絵はがきのような美しい風景を撮るのがうまいというだけではない。ユジンの仕事風景やプラザホテルの廊下やロビーなどの切り取り方が実にうまい。それらしい場となっている。ロケ先でそこにいる人物たちをそのまま取り込んで撮影しているケースがかなりあるのだろう。カットをよく見ていると、そこに写っている人たちがカメラを見て驚く表情がかなりあるのだ。現場の空気をきちんと記録し残しているから画面にリアリティがあるのではないか。

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by yamato-y | 2008-08-10 01:15 | 冬のソナタを考える | Comments(1)

冬ソナの女性像②

オ・チェリン(パク・ソルミ)②

チェリンの生き方に共感する尾形教授の話を以前に記した。そこでの尾形教授の読み取りの深さに好感をもったが、実際にチェリンの思いを綴った本が今年になって発売された。2008年5月に出版された『新・冬のソナタ~サンヒョクとチェリンの純愛日記 上下』(講談社)だ。これは、本編のシナリオを書いたキム・ウニとユン・ウンギョンによって書かれてあるから、”正統”な外伝(スピンオフ)ということになる。

サンヒョクのことは別の機会に記すことにして、チェリンに言及しておこう。彼女はパリに3年間留学していたときに、ミニョンと出会った。留学できるほどの裕福な家庭の出身である。やはり、チェリンもユジン同様に高校時代にチュンサンと出会って恋をしていたが、実らずかつ不幸な喪失を体験していた。だから、よく似たミニョンをパリで見つけたとき、彼女はその「10年前のリベンジ」を計ろうとした。それが、母校で開かれたユジンとサンヒョクのお祝いの会に、ミニョンを連れて行くことにした大きな理由だ。だが、チェリンは自分の無意識にとった行動が何を意味しているか分かっていない。

ただ、自分とミニョンの間にちょっとしたイベントを作りたいという思いで、クラスメートを紹介するとチェリンは口を滑らしただけだ。なぜ、そんなことを言ったのだろうとチェリンはやや悔いている。もし、そこへミニョンを連れて行って、ユジンがミニョンを見たらどう反応することになるだろうか、自分で仕掛けておきながら得体の知れない不安にかすかにおののいている。

そして、実際に放送部の仲間にミニョンを会わせたことで、チェリンには不安の黒雲が広がっていく。仲間と別れて、帰りの車中でミニョンから疑問が発せられたのだ。「ぼくの顔を見ただけで、まじまじと見つめていた、なぜなのか。特にあの婚約したという女友達のことだけど。いったいどうしてそうなんだい?」
チェリンは、このときからミニョンの逃走、ユジンとの合流していくことへの予感をもつ。
だから、ユジンを貶めようと次々に策動していくが、それがかえってミニョンとの間を近づけることになり、かつチェリンからのミニョンの離反になっていくのだ。

そしてチェリンが一番怖れていたチュンサンの真実をチンスクがミニョンに話してしまう。このチンスクの告げ口もチェリンの身から出た錆なのだが、彼女としては納得できない。それにしても真相をミニョンに知られたため、ユジンとの接近をチェリンは密かに怖れる。だが、何としたことかミニョンをかばってユジンが負傷するという事故が起きる。この日は奇しくもチュンサンの命日である12月31日だと、シナリオ作家は書いている。つまり、ユジンとチュンサンは運命的な関係であると示唆している。

この日を境に、ミニョンはチェリンからどんどん離れていくことになる。チェリンにとってはこんなに割りの合わないことはないだろう。ふらふらしながら漕いでいる自転車が、ぶつかってはいけないという電信柱に吸い寄せられそうに向かっていく、あの姿にそっくりだから。

一方、ユジンが自分に亡くなったチュンサンを重ねて見ていたということを知ったミニョンは、それまでの違和感がすべて反対項へと転換する。不実に見えたユジンの態度はすべて誠実であると分かったうえは、恋心が深まっていくことになったのだ。
これで、ミニョンが疑惑をぬぐってからユジンへ惹かれていくことの「早さ」が分かった、というか納得できた。
第8話「疑惑」から9話「揺れる心」の1話を経るだけで、ミニョンはユジンに対して心が反対ベクトルに傾くのだ。原ドラマだけではあまりに早いとしか思えなかったが、チェリンと交わした会話を通して、ミニョンの心境が明らかになった。

ひとまず、チェリンの前半における葛藤をのぞいておいて、中盤、後半は記事を改める。

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by yamato-y | 2008-08-02 17:34 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

ラカンさん

ラカンさん

ジジェクの『ラカンはこう読め』は難しいがわくわくする。ジャック・ラカンという現代の難問を、ジジェクは分かりやすい例証を挙げて説明してくれる。その手際の鮮やかさに心奪われる。

昨日、カラスの鳴き声について、彼らは対話しているだろうが、その内容を知りたいと私は書いた。鳴き声というシニフィアンに対話の内容シニフィエがあると思い込んでの説明である。ところが、ジジェクは違う視点を提供していた。
アジサシは、魚をつかまえて別のアジサシに渡すという行為を、動物行動学の知見から説明している。渡すというコミニュケーション行為が意味があるのであって、魚を配ること、どんな魚であるかということは、それほど意味があるのではないという。
なるほど、カラスの鳴き声で交わし合っている行為が重要で、鳴き声を使って何かを伝えていると推測するのは、お門違いというわけか。

現代思想なんていうと難しそうだが、このラカン理論が冬ソナにも適応できるのだ、ジジェクを経由すれば――。

われわれが言語で直面するのは、遂行的次元でのメタ選択だということの一例をジジェクは挙げている。

パートナーが私にこう言った。「きみを心から愛している。二人が結ばれれば、ぼくはすべてを君に捧げる。でも警告しておく。もしぼくを拒絶したら、ぼくは理性を失い、きみの人生をめちゃくちゃにするかもしれない。」これって、サンヒョクの考えとそっくりだ。このメッセージの後半は前半を否定している。もしノーと言ったら破滅させてやるなんて言う人が、私を心から愛しているだろうか。ここには、ラカン理論によれば私に対する憎しみ、あるいは無関心が潜んでいるという。

一方、これに対する「偽善」(ジジェク)もある。
「君を愛している。君の答えがどうであろうと、ぼくは受け入れる。だから君の拒絶がぼくを破滅させることになる(ということを君が知っている)としても、心から望んでいるほうを選んでほしい。それがぼくにどんな結果をもたらすかなんて、いっさい考慮に入れないでほしい。」これって、第10話のミニョンさんの言い分とよく似ている。
この言葉をジジェクはラカン理論を借りてこう解釈する。
《この言葉には相手を操作しようとする欺瞞が潜んでいる。いやならいやと言ってほしいという「正直な」主張は、「はいと言え」という無言の圧力になっているのだ。「こんなに愛しているぼくを拒むなんて、できるはずがないだろう?」》

すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているのかを伝達するものだと、ラカンは教えている。そういうことをジジェクが分かりやすく説明してくれるのだ。

しかし、ラカン分析で「冬のソナタ」の登場人物の欲望を読み直すというのも面白いなあ。ラカンをジジェクが回し、ジジェクを読者が回してのらかん遊び。
ラカンさんがそろったらまわそじゃないか、ヨイヤサノヨイヤサ

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by YAMATO-Y | 2008-07-31 08:58 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

物語の作られ方

物語の作られ方

「冬のソナタ」の作者とは誰だろうか。ユン監督かシナリオ作家か、役者か、カメラマンか。この問いに対して、一応フィルムメーカーというペルソナだという内田樹案を与えておいて、第6話の「忘却」のエピソードから以下のことを考えてみた。

まず、6話のあらすじを思い出そう。
ミニョンと衝撃の再会を果たしたあと、ユジンは彼がチュンサンかどうか分からないままでいた。そして、機会があって二人は酒を飲むことになる。ユジンは酔いつぶれた。
ミニョンは仕方なくユジンを自分のホテルの部屋に連れて帰る。そこで、ユジンが自分をチュンサンと呼ぶのを耳にし、ミニョンはユジンが2面性をもつ悪い女かと疑う。チェリンの言葉どおり、ユジンが汚い手を使って親友の彼氏を誘惑しようとしているのだと考えた。やがて、ミニョンの部屋にユジンが来たことを知ったチェリンは罠を仕掛ける。
ミニョンとユジンは車で一緒に仕事場であるスキー場に向かうことになったが、二人の間に冷たい空気が流れている。ぎくしゃくした関係が進行するものの、運命は二人を近づかせるほうへと導いていく。戯れのまま二人が引いたタロットカードは「運命の輪」を示していた・・・。

このタロットカードという「小道具」はキム・ウニ、ユン・ウンギョンのシナリオ作家たちが思いつきかつこだわった。カードやパズルといったメタファーを配置しておいて意味を暗示するという手法が好きだったのだが、監督はあまり乗り気ではない。彼はストレートに感情を示すほうがいいと考えたのだ。そこで、両者は議論してようやく一部取り込むことにした。

タロットカードの布石は、この6話の最後に起きる木材落下事件があって効力をもつのだが、エピソードが飽和していたのでユン監督は、この落下事件を省こうとした。が、作家たちが懇願して実現したと『もう一つの冬のソナタ』(キム・ウニ、ユン・ウンギョン著)に書かれてある。作家たちは撮影現場で必死で知恵をしぼって物語のコンテを考えて監督に提示して、やっと了承を得たと告白している。

ここから分かることは、このドラマの大きな仕掛けは予め監督と作家達との間で合意されているが、各論では作家たちが具体的なイメージを提出し、それを監督が吟味して採用するという方法をとっている。物語の大きな流れはあっても、目の前の出来事の展開はすべての人にとって未知であったのだ。予定調和の流れにはなっていない。だから、このドラマは「生きていた」のだ。

シナリオはロケの現場で書かれて、当日に使われるという離れ業が、このドラマ作りのなかで行われるようになった。「撮って出し」と揶揄される韓国式ドラマ作りだ。

だが、こういうことは40年前、日本映画全盛にもあった。プログラムピクチャーを10日で1本作るツワモノがいた。その熱気がドラマに吹き込まれていたことがあったことを、私たちは思い出しておかなくてはいけない。

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by yamato-y | 2008-07-27 10:57 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

避けられる恋なら運命ではない

ユジンの苦悩そして予感

秋から始める「冬ソナ講座」のために、もう一度シリーズを通して見ることにした。今夜は第7話「冬の嵐」までとりあえず見た。あらためて、このドラマの出来のよさに驚く。

 ユン監督の演出の卓抜さはこれまで何度となく言われているが、今回、映像編集の巧みさにも舌を巻いた。一言でいえば、「省略と余情」である。けっして映像が説明的に組み立てられていない。日本のドラマは文法通り、場面が変わるとそのシーンの場所性を示すロングショットを冒頭に置くものだ。ところがユンエディットはほとんど入れない。入れなくても場が変わったことが観客に理解できる。できるように撮影段階できちんと画に情報が書き込まれているのだ。この説明ロングを省略でどれほど内面の緊張が持続できているか。
余情はユンエディットの最大の見せ場だが、ここでは音楽のカットにまたがっていく手法が絶妙だ。しかも音楽は10足らずのパターンとなっているから、その音楽を聴けば、観客は自動的に悲喜が理解できる。

でも、そういう技術的なことに拘泥したくない。物語の語りのうまさに陶然とする。このドラマの主題は「運命の恋」。チュンサンとユジンは出会うべくして出会う関係であることが骨頂だ。内田樹氏も言う宿命の愛だ。それはシナリオにおいて、実に巧みに作りこまれている。二人のシナリオライター、キム・ウニとユン・ウンギョンさんの語っていることに耳を傾けたい。

その著『もうひとつの冬のソナタ』で、避けられる恋なら運命ではないという。
 ユジンは、仕事の相手がチュンサンそっくりのミニョンだと知っておののく。運命的なものが近づいていると直感で知ったユジンは避けようと、その仕事から降りようとするが、運命は二人を皮肉にもさらに引き付けさせていく。しかもチェリンの悪意によって、ユジンは苦境に立たされながら、そのことが返って二人を引き寄せることになるのだ。
その自分の運命の流れにユジンは大きな不安を抱く。運命の愛が近づいているとユジンは婚約者であるサンヒョクにはとうてい言えない。言えるはずもない。

だが、第4話「忘れえぬ恋」の最後に、二人の関係性を知ったサンヒョクは動揺する。
ユジンが嘘をついたことに腹を立てたわけではなく、これからやってくるだろう運命の非情さを予感して動揺したのだ。

そうだ。避けようと努力して避けることが出来るぐらいなら、運命の愛ではないのだ。一直線に繋がるのではなく、禍福があざなわれて、運命は少しずつ二人をからめとっていく。

このドラマの良さを挙げればキリがない。今夜はここまでにしておこう。


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by yamato-y | 2008-07-27 01:09 | 冬のソナタを考える | Comments(0)

やっぱり

やっぱり

暑い、暑いとうなっていたら、宅配便が届いた。
京都山科に住む先輩夫婦からだ。中身は「冬のソナタ」DVD全7巻。2ヶ月ほど前に私がお送りしたものが返却されてきたのだ。

夫のジローさんは68、妻のトヨコさんは63。
トヨコさんはこう記してきた。
《以前に中抜けながらテレビでみていたのでストーリーは知っていると思っており、時間のあるときに少しずつ見ていこうと考えていました。
 ところが、第1巻を見終わったときに、中抜けの分のストーリーをいい加減に創作していたことに気がつきました。これは大変と第2巻に進もうとしたのですが、深夜であもあり、心を残して次の日に譲ることにしました。翌日から落ち着かず、とうとう3日目の夕食後、家事もそこそこにおき、第2巻から見始め翌日の夕方まで一気に見通してしまうことに。掃除・洗濯はそっちのけ、留守番電話で外界を社団してドラマの世界に魅了されました。このドラマは心を素直にさせてくれますね。》

でしょう。やっぱり、トヨコさんははまると思った。絶対にこのドラマにつかまると思ったのだ。現役の頃、仕事熱心で曲がったことが嫌いな真面目な人だった、でも情熱的なほとばしりを時々見せる人だったから、「冬のソナタ」の純一なメッセージをまっすぐ受け止めると、私は予想していたのだ。

一方、夫のジローさんはもう少し涼しくなったら見ようと思うと、書いていた。
だめだなあ。もっと素直にならなくては、とジローさんに冷やかしの便りをいれたくなった。9月の集中講義で上洛するときに、ご一家を訪ねて、冬ソナ談義でおおいに盛り上がろうと考えている。

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by yamato-y | 2008-07-23 14:36 | 冬のソナタを考える | Comments(0)


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