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by yamato-y
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カテゴリ:あしたのジョーの、あの時代( 25 )

愛と誠

愛と誠

テレビをつけたら、「グータンヌーボ」という番組をやっていた。女の本音のトークだそうだ。モデル、押切もえ、歌手の大黒摩季、そしてアナウンサーの内田恭子らがカメラを意識せずに3時間を過ごすという触れ込みの番組。そんなことありえないじゃない。カメラで撮られていること前提で、本音らしくトークしているだけだろうと、つっこみをいれても野暮なことだが、その会話が耳障りだった。この3人の女性の「本音」というのは、「・・・してほしい、・・・してくれない」の連続だった。

練馬の大泉学園へ行ってきた。梶原一騎夫人篤子さんに会うためだ。2年前製作した「あしたのジョーの、あの時代」のときに取材して名刺交換はしているのだが、今年の少年週刊誌50年の記念イベントがらみで、お願いにあがったのだ。
篤子さんは、梶原と結婚して子供を3人なしたあと離婚して、さらに数年後に再び、結婚した経験をもっている。マッチョな男梶原一騎。氏から、夫人はたいへんな苦労も与えられたはずだが、死別して20数年、亡き夫のやさしさ、かなしさが甦ることが多い。篤子さんのなかでは梶原の面影はますます濃くなっている。

 篤子夫人の体調がおもわしくないということで早々に辞去するつもりであったが、思い出話に熱がこもり、つい2時間ほど滞在した。すべて梶原一騎の優しさの話である。こんなエピソードがある。
 18歳の頃、梶原は浅草でストリッパーと同棲していた。その女性に東宝の社員が惚れた。梶原より10歳も年長のその男は、二人が同棲していることを承知で、ある日、梶原に告白した。あの女(ひと)といっしょになりたい、結婚したいと。その話を黙って聞いた梶原は家に帰った。しがない自分は、これからどうなるかもおぼつかない。彼は大手の会社の社員だ。
夜、女が戻って来て、その日あったことのあれこれ楽しそうに話す。にこにこ笑って梶原は聞いた。そして眠りについた。明け方、梶原はそっと布団を抜けだし、身の回りの一切をつめた風呂敷包みひとつで家を出る。出る前に、その女の履いていた赤い小さなハイヒールを胸にかき抱いて、滂沱の涙を流した。
梶原の未完となった『男の星座』に、この顛末が書かれてあったから、夫人は知った。その赤いハイヒールを胸に抱いている梶原青年の胸のせつなさを思って、夫人は大きな目に涙をためる。梶原一騎が死んで20年以上になろうとしているが、夫人のなかでは生きていた。「もし、死んで閻魔さまのところへ行って、お前は生前何をしたかと聞かれたら、私はあの梶原一騎と2度も結婚したのですと、答えることかなあ。私の人生って。」
夫人の話のなかに、「してくれない」という言葉はいっさいなかった。「してあげたかった」ばかりだった。

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by yamato-y | 2009-02-05 09:08 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

グスン

グスン

少年サンデー5代目編集長の高柳さんを取材した。とにかく面白い。話を聞いていると、創刊から10年ほどの少年週刊誌の神話時代は漫画家も編集者も読者も熱くユニークで純情だ、ということを実感する。ベビーブーマーの私はこのカテゴリーの中の読者に含まれることを光栄に思う。

その当時のぼくらはどんな読者だったかを、想起させる絵があの石原豪人画伯によって描きとめられているのを発見。題して「昔の子供はいろいろ苦労した」。
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家にやってきたテレビはむろん白黒で14インチ。小さかったが現在のテレビの500倍ぐらい面白かった。テレビを見すぎると目を悪くするから、3メートルは離れてみなさいとしつけられた。一人に一部屋なんて身分の子供は周りを見ても誰もいない。弟や兄たちと混じる相部屋で勉強机があって蛍光灯のスタンドを立てて宿題をやっている、ふりをしながら引き出しにサンデー・マガジンを忍ばせて読んでいた。母親が近づいてくるとさっと引き出しを閉めた。それを弟が言いつけて、おかげでぼくは叱られる。母親がいなくなったあと、弟の頭をごつんとやる。泣く。ふすまが開いて「また、弟を苛めて」と再び説教をくらう。豪人先生の絵とキャプションは当時のぼくらの様子を活写している。「マンガばかり読んでいると叱られるので勉強をしてるふりをしてサンデーを読んだ。」

この記事は、実は高柳さんから借りた少年サンデー創刊30周年記念号の中にあって、1989年4月に発行されている。この記念号に飛び切りのネタがあった。それは、「おそ松くん」の一家のその後が作者赤塚不二夫によって描かれていたのだ。実に彼らは劇的に早死にしていたのだ。
6つ子一家(父も母も含む)は昭和45年3月6日に、はじめて食べたふぐ料理で全員中毒死。ぼくが会社へ入る直前、実家でだらだらしているときに、おそ松一家は死んでいたのだ。グスン。翌年の1月8日、私は大阪にいたその日、イヤミは歯槽膿漏で死んでいる。昭和50年の12月8日9日と連続して名優が死す。ダヨーンのおじさんとハタ坊だ。ハタ坊の場合、ハタに落雷して黒こげになったという。53年のエープリルフールにあのトト子ちゃんが拒食症になり体重3キロにまでなって餓死。グスン。デカパンは55年の8月6日ヒロシマの日に、金属パンツをはいたために傷が出来破傷風で死亡。そして、作者の赤塚不二夫は昭和63年1月1日、つまりこの記念号の年の正月にアル中でマンガが描けなくなって自殺した、とある。昭和の終わりとともに「おそ松くん」の人々はみんな昇天した。
少年時代、夢中になって読んだ「おそ松くん」の登場人物たちの悲惨な運命を、連載が始まった昭和37年から47年も経って知ることになった、嗚呼。
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・・・と思って、よく考えたのだが、ちび太がこのなかに入っていないぞ。ひょっとすると、われらがちび太は、世紀を越えてまだ生きているのじゃないか。


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by yamato-y | 2009-01-30 00:13 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

エンドレスの巨匠

エンドレスの巨匠

連句でも終わりというのを設定しおかねば、永遠に続くものだ。座という複数の想像力は相乗作用を起こして止め処もなく続く。だから36句で終わりとしておかないととんでもないことになる。この36句を歌仙と呼んで、一つの完結体に古人は措定したのだ。相撲でも芝居でも興行にも終わりがある。千秋楽だ。

表現というのはどこで「筆」を下ろすかというのが大切な判断となる。少なくとも制作主体が自分から終わりと宣言するのは、良心的であればあるほど難しい。もっと描きたい、もっと直したい、という欲望。

ちばてつやという漫画家は幾度も描きなおしをする人だ。書き直したからといって、作品が良くなるとは限らない作家が多いなかで、ちばさんは直したら確実によくなっている作家ですと、担当編集者のイシイさんは力説する。だが、その書き直しに応じているととんでもないことが起きると、イシイさんは怖れる。

漫画の下書きとしてのネーム原稿(せりふをコマ割したもの)が上がった段階で、頁数が把握できるから、そのつもりで編集者がスタンバイしていると、書き直しで原稿の上がりが遅れて、締め切りすれすれで届くことになる。見ると、予定していた枚数より増えているではないか。減る分には、広告とか雑記事で埋めることもできるだろうが、増えると雑誌そのものの設計からやり直しが出てくるのだ。作業の終盤での改編は、編集する者にとって地獄を意味する。

なぜ、そんなことが起きるのか。
当初、設計したコマ割の通りに本絵を描いていくとしても、画の流れが起きてきて、文章の論理ではなく画の論理として、どうしても新しいカットを入れたくなることが出てくる。ちばさんは、特に、物語に没入するとイメージがぶわーっと膨らんでくる。そこが、ちばてつやという才能の偉大な部分であろう。
いきおい、その膨らんだ分だけ、コマ数が増えて、頁がかさむのだ。

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by yamato-y | 2008-07-18 17:39 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

漫画編集者

漫画編集者

昨夜、ちばてつやさんのマネージャーと担当編集者を交えた食事会に出た。
マネージャーは長男のヒロシさん。編集者はヤングマガジンのイシイさんである。このイシイ記者がとても面白い人でその話に引き込まれた。

4年以上、休筆していたちばさんを引っ張りだしたのが、このイシイさんだ。69歳となり視力も減退したちばさんに再び筆をとってほしいと働きかけたのが半年ほど前だったそうだ。そこで、持ち出したのがちばさんの自伝を書いてほしいということだった。3つの話が候補に挙がった。満州で逃亡生活を送ったこと、少女漫画を描いていたときの傷害事件、スポーツ漫画へ転身する頃に患った病のこと、の3つだ。そのうちの病のことは他誌に譲ることになり、近頃発表された。「赤い虫」という題のその作品はなかなかのものだ。

赤い虫というのは、若い頃にちばさんが患った病だ。寝ているときに虫が這いずりまわり、体の一部で留まって弾けるということを妄想する精神の病だ。この症状は通称「皮膚寄生虫妄想」医学的には「妄想障害(身体的)」と言うそうだ。精神が極度に緊張していたりすると発症する。赤い虫というのは比喩ではなくちばさんは本当に悩まされ苦しむ事が続いた。その出来事を漫画にしたのだ。

ちばさんは、数々の名作をものにし、紫綬褒章まで受けている作家にもかかわらず、まだ読者に受ける、受けないを気にする人で、この自伝漫画も、他人には面白いのだろうかと、ずっとイシイさんに不安を口にしていた。そこが、ちば先生の凄いところなんですよとイシイさんは語る。

この病を克服するために、ちばさんは野球を始めた。元来スポーツ音痴で体を動かすことがなかったちばさんが、野球をやって身体を使うことで、その症状が軽減されていった。その野球は70歳近くなった今もやっている。編集者として、イシイさんは先生の体を案ずるが、「先生、今でもヘッドスライディングをやっちゃうんですよ」と呆れる。

こうして、それまで少女漫画を中心に描いていたちばてつやさんが、病を克服しながら少年スポーツ漫画家へと転身していく。「俺は鉄兵」「あしたのジョー」「あした天気になあれ」「のたり松太郎」と名作が生まれていくのだ。

イシイさんは次作を担当している。ときわ荘の漫画家たちとの交流を描いた作品。これが実に面白そうだ。イシイさんはそのさわりを少し話してくれた。その話し振りが、落語家はだしの熱演で、思わず引き込まれる。偉大な漫画家には優秀な編集者がいるのだ。

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by yamato-y | 2008-07-18 08:17 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

ふたりの編集長

ふたりの編集長

目白の椿山荘で、少年サンデー、マガジンの元編集長二人と会って取材をした。
取材地は音羽(マガジンを発行していた講談社のある場所)や神保町(小学館のある地)からほど近いところにあるから、そこで会いたいとサンデーの編集長の要望だった。

サンデー、マガジンは少年週刊誌の草分けであり老舗だ。1959年に創刊され、発売されたのも同じ3月。ずっとライバルでやってきた。その両誌の編集長が相並ぶという。どんな話をしてくれるのだろう。ライバル意識はどうなのだろう。好奇心半分で出向いた。

1959年当時、週刊誌が次次に創刊された。テレビ時代が始まっていた。テレビの速報性に対応するうえでも少年誌は月刊から週刊へ向かうということは必然だった。小学館、講談社とも同じ時期に社主がそう感じて隠密裏に準備した。若干、サンデーのほうが動きが早く、マンガ家をあらかじめ押さえた。マガジンが動いたときにはめぼしい作家はほとんどサンデーに囲われていた。

いつ発売するか値段をいくらにするか、情報戦があった。結局、3月17日という同じ日になった。値段はサンデー30円、マガジンは付録付きで40円となった。最初の10年は熾烈な戦いがあった。漫画家の引き抜き、企画の競争があった。発行部数サンデー50万、マガジン32万と少しサンデーがリードした。ギャグのサンデー、ストーリーのマガジンといわれるのは、「おそ松くん」がサンデーから出て、「巨人の星」「あしたのジョー」がマガジンから出た頃からだ。怪獣ブームをいち早くとりこんだマガジンが一気に発売数を100万まで増やし逆転する。大伴昌司が活躍はじめた頃だ。

70年代半ば過ぎ、マガジン、サンデーが低迷しているとき、新興勢力が現れた。少年ジャンプである。後発だから有名な漫画家をかかえていない。先行2誌は高をくくっていた。ところがジャンプは不利な条件を逆手にとった。新人登用、育成で乗り切ることにしたのだ。これが当たりぐいぐい売り上げを伸ばしてゆく。

意外にもサンデー、マガジンの二人の編集長は仲がいい。ライバルとはいえ、同じ辛苦を味わってきた仲という親近感は大きい。実は、資本的にいえばサンデーの小学館とジャンプの集英社は親戚関係にあたるのだが、サンデーの編集部はジャンプよりマガジンに親しさを感じている。一時、マガジンがジャンプの売り上げに迫ったとき、サンデーはマガジンがんばれと応援したんですよとサンデー元編集長は告白する。二人とも編集長は卒業して、現在はそれぞれの社の重役になっている。

2時間たっぷり話を聞いた。ディレクターもそうだが編集者も話し好きだ。サービス精神も旺盛。つい、眉につばしたくなる話もちらほら。

おかしかったのはマンガ編集者のコンプレックスは幼年期のSF作家とよく似ていたということだ。社でいちばん稼いでいるのに、あいつらはどうせマンガなんだからという視線をたえず感じていたと、両編集長は口をそろえる。この「ヒガミ」はどこかで見覚えがあると思ったら、そうだ60年代のSF作家たちだった。

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by yamato-y | 2007-11-09 12:35 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

少年誌ブームの時代

少年誌ブームの時代

土曜日に放送した「あしたのジョーの、あの時代」はたくさんの人が見てくれたようだ。
今朝も出社すると、いろいろな人から声がかかる。総じて年配、つまり団塊に近い世代が多いのだが。

さて、この番組を企画したのは大伴昌司を検証するためであったことは、このブログを読んでいる人であればすぐ分かるだろう。
まさに、「あしたジョー」の時代は大伴昌司の時代と重なるのだ。あの頃、少年マガジンが100万部を突破し大勢の読者を獲得した大きな要因は、一つはジョーでありもう一つは大伴の巻頭図解であった。この時代を評論家の呉智英は、「昭和40年代というのは、戦後、マンガブームの第2期黄金時代であった。」と言っている。


1期は昭和20年代から30年代前半の貸本や月刊誌が流行した時代、この当時の読者が団塊世代で2期の中心にも彼らはなる。1期当時は小学生で、2期には高校生から大学生になっていた。大学生がマンガを読むと世間の顰蹙をかったのだ。  

呉はこの第2期で6つの作品を高く評価している。ギャグマンガを根底から変えた「天才バガボン」、風俗を変えた「同棲時代」、アメリカ的要素が最初に入り込んだ「サイボーグ009」、時代を挑発したギャグマンガ「ハレンチ学園」、闇の世界をとりあげた「悪魔くん」、そして描き手と原作者の分業として作り出した「あしたのジョー」である。

そして「あしたのジョー」と併走するかたちで大伴が次々に森羅万象を図解化していくのだ。昭和44年に提示した「情報社会」はまさに40年後の現代を透視していたのだ。

 現在の少年誌には大図解はない。大伴の死とともにそれを代わって担当するものもいなかったこともあるだろうが、時代はその役目を振り落としていった。マンガはますます盛んになりオタク達を生み出し進化していった。

 だが、果たして少年誌はかつての活力をもっているだろうか。マンガの物語は複雑化しスーパーリアルな画がふえたが、マンガの活力は少しずつしぼんでいるような気がしてならない。

今、力石の死に涙したような共感を、読者はもっているだろうか。

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by yamato-y | 2007-03-26 15:29 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(1)

今夜放送「あしたのジョーの、あの時代」

今夜放送「あしたのジョーの、あの時代」

いよいよ今夜放送されることとなった。朝から緊張する。
視聴した人たちはどんなふうにこの番組をうけとめてくれるのだろうか。期待と不安がある。放送本番をむかえるときはいつも感じる思いだ。30年やってきてもこの高ぶりは変わらない。

年が明けたと思っていたらいつのまにか春だ。この数ヶ月は時間が経つのが早い。春分の21日は休みをとったが、この三週間土日は仕事をしていて休みをとっていないことに気づいた。本日もそうだ。午後3時からセンター8階のMAルームでナレーション録りがある。「ようこそ『春のワルツ』へ」の音入れだ。語りは小野文惠アナ。この台本のチェックは一昨日までにすませてある。あとは実際にコメントを入れてその場での「直し」をやってゆくことになる。45分の番組だから作業はそんなにかかるまい。おそらく6時過ぎには終わるだろう。早く帰って、自宅で「あしたのジョー」をモニターするつもり。

ただいま午前9時。寝床の中でこれを書いている。空はどんよりとうすぐもっている。寒くはなさそうだ。起き出して駅まで新聞を買いに行こう。ラジオテレビ欄が気になる。どれぐらい各紙は書いていてくれるかなあ。少なくとも全国紙2社とタブロイド誌1社の取材は受けたのだが、小さな記事でもいいから当日にあると嬉しいのだが。これがあるのとないのとでは見てくれる視聴者の数がだいぶ違うのだ。といっても教育テレビだから民放のゴールデンのような二桁の視聴率なんかとは比べものにならないほどの、小さな数字ではあるのだが。

 昨夜、久しぶりにTSUTAYAでビデオをレンタルした。イ・ビョンフォンの『甘い人生』だ。非情なギャングのラブストーリーだとパッケージの解説に書かれてあったのに引かれて見ることにした。期待と大きく違ってアクションものだった。だが、イの動きが素晴らしいこと、人物描写の分かりやすいこと、切れ味のいいアクション、冷たく儚げなイの表情、などと条件がそろっていて映画は十分楽しめた。つい映画にはまって2時過ぎまで起きていたので今朝は寝坊した。

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と思って駅まで行って、読売と毎日を買った。
なんと、読売はでかでかと「ジョーの時代」が出ていた。
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by yamato-y | 2007-03-24 08:52 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(1)

もう一つの語りは長谷川さん

「あしたのジョーの、あの時代」

本日は、赤坂でナレーション録(と)りがある。
24日放送のETV特集「あしたのジョーの、あの時代~団塊世代 心の軌跡~」の語りを録音するのだ。一応、効果音や音楽は既に入った。最後に語りを入れるだけとなった。ナレーターは長谷川勝彦さんだ。

長谷川さんの詠みは定評がある。重厚にして軽妙な語りはディレクターやプロデューサーから篤い信頼を得ている。
長谷川さんと私は今を遡ること23年前、長崎に赴任したときに机を並べた仲である。むろん長谷川さんのほうが大先輩である。当時は中堅のアナとしてニュースを中心に詠んでいたが、うまい人だなあと憧れていた。江戸っ子で普段はべらんめえ口調があるが、仕事の声は実に正調であり聴きやすかった。私が尊敬する和田篤アナの後継だと勝手に思っていた。

それから10年後、「もう一度、投げたかった~炎のストッパー津田恒実の直球人生~」で、長谷川さんにこの悲劇の投手の人生を語ってもらった。素晴らしい詠みだった。原稿を自分で書いておきながら、私はスピーカーから流れてくる長谷川さんの声に思わず落涙しそうになったことを覚えている。

そして、5年前「向田邦子が秘めたもの」でも心に沁みる語りを聞かせてくれた。向田が恋人に撮影された写真があって、その撮られた大きな瞳の中に恋人がかすかに映っていた。そのせつなさを私は文字にした。それを長谷川さんは見事な「声」で響かせてくれたのだ。

その「向田」の番組と同じプロデューサー、ディレクターらが今回の番組を担当している。語りを誰にするかを決めるとき、私が長谷川さんを挙げると一も二もなく賛成してくれた。上述した二番組はヒューマンドキュメンタリーであり今回はトークをベースにした教養番組で赴きはいささか違うので、心に沁みるというわけにはいかないだろうが、一つ大きな楽しみがある。それは地のナレーションとは別に漫画「あしたのジョー」の吹き出しの詠みがあるのだ。例えば、ジョーのつぶやきで「真っ白になるまで闘うのだ…」とか、力石のセリフで「立て、立つんだ!ジョー」とかが、長谷川さんに詠んでもらうことになっている。地の語りとどんなふうに変えて詠んでくれるのか、楽しみにしている。

さあ、今日のこの作業を終えれば「あしたのジョー」もほぼ完成だ。これで一山越えて、もう一山だけとなる。それは31日放送の「春のワルツ特番」だ。気を緩めずにいこう。


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by yamato-y | 2007-03-15 07:49 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(1)

梶原一騎とちばてつや

二つの星

漫画の原作というシステムをいち早く実践したひとりが梶原一騎であろう。梶原は元来、小説を書くことを目指していた。だからマガジン、サンデー以前の少年月刊誌で絵物語の原作を担当していた。

50年代後半、週刊誌になった少年誌に、漫画という「映像」が活躍を始めたとき、マガジンの内田編集長は原作を別に立てて効率よくかつ質のいいストーリー漫画を作っていきたいと考えて、梶原に漫画原作を懇願したのだ。このとき内田は口説き文句として使ったのが、戦前の「少年倶楽部」で活躍した佐藤紅緑だ。「嗚呼玉杯に花うけて」など熱血少年小説の大家のような作家になってほしいと口説いたのだ。

「チャンピオン太」や「巨人の星」で頭角を現した梶原に、マガジン編集部は次の
大きな手をうった。60年代後半のことだ。担当の宮原は梶原に売れっ子で力のあるちばてつやを充てたいとコンビを構想した。当時、ちばは「紫電改のタカ」とか「ちかいの魔球」で大家となっていた。筆力が冴え渡っていた。

当時はちばのほうが格上。暴れん坊のイメージがある梶原は、原作の字句を直すことは他の作家であれば許さないが、ちばだけは許した。手塚治虫とちばてつやだけは別だと語っている。

それでも「あしたのジョー」の冒頭の場面から変更されたのには激怒し、梶原はこんなことなら俺はもうやらないと決裂寸前となる。宮原らの必死の説得で元の鞘に戻ることになるが、こういうアクシデントがいくつも重なって、ちばと梶原は仲が悪いという噂が立つようになった。

この冒頭の場面。梶原案はリング上の戦いから始まっていた。ちばはこれでは「あしたのジョー」の“あした”というものが浮かび上がる伏線にはならないと考えた。ジョーの出自から始めるべきだと思い、下町の吹き溜まりのようなドヤ街にジョーが現われるところから始めたのだ。この改変は成功した。

文章の梶原からイマジネーションを焚き付けられて、ちばは映像的な物語を紡ぐ。この原作、漫画というシステムは実に弁証法的に機能し、作品を高いレベルに押し上げてゆく。

今回、わがチームが発見した「あしたのジョー」の梶原原稿を見てびっくりした。まったく小説スタイルではないのだ。シナリオともちがう。その中間といっていいか、文章とせりふだけの箇条書き風にきちんと書き込まれていた。その原稿を読むだけで熱いものがこみあげてくるように書かれていた。これが、ちばてつやの魂を揺さぶりの渾身の画を描かせていったのだ。

ラストシーンもちばが変更した。
梶原案では、メンドーサとの激しい戦いから数日を経たある日、ジョーは白木葉子と縁側で日向ぼっこしている・・・・・。
これをちばは一旦画にするが、納得がゆかず変更を申し出る。当時、人気作家となって超多忙であった梶原は「好きなように」と言って、ちばに譲る。
まかせられたちばはメンドーサの戦いのまま終わることにする。試合が終わり判定が下ったあとのジョー。コーナーの椅子にこしかけて「真っ白に燃え尽きたジョー」。あの名場面となる。

先の梶原案のラストシーンをちばはエンピツ画で描いた。その画は封筒に入れて残しておいたがと、先日の取材でちばは語った。
驚いたわがチームは、ちばさんのプロダクションの社長に頼んで工房を調べてもらった。だが膨大すぎる資料のため見つからなかった。
だが私は諦めていない。

さて、仲が悪いといわれたちば・梶原コンビだが、真相は違う。同じ西武沿線に住んでいたこともあって、よく会って酒を飲んだよとちばさんは語っていた。噂なんて、ほんとうにいい加減なものだ。

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by yamato-y | 2007-03-05 11:14 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

あしたのジョーの生原稿、その後

多忙のシルシ、休日出勤

今朝は早くから出社した。社のパソコンに番組情報のメールが2通入ることになっていたので、それを回収することもあって、休日出勤となった。
9時過ぎ、会社でパソコンをチェックしたあと、赤坂のプロダクションへ編集打ち合わせに出かけた。

11時、赤坂の事務所にて「あしたのジョーの、あの時代」の編集方針について二人のディレクターと相談する。おおまかな構成は出来ているが、内容の時系列の処理がうまくいっていない。その語り口(ナラティブ)をいかに作り上げるかが、今回の作品の成否に関わるだろう。

ミーティングのあと、昨夜の7時のニュースの録画を見た。思っていた以上に大きな扱いで驚いた。ヘッドライン3項目の3番目に「梶原一騎、あしたのジョーの原稿発見」があったのだ。尺(内容時間)も2分強あった。こういう文化ネタが7時のニュースで大きく取り扱われるのも久しぶりだ。映像は私のチームが取材するのを、報道のカメラがサイドから撮影していた。だから画格がややルーズだ。実は、私のチームは至近距離で撮っているからちばてつや氏の驚愕の表情もはっきりしている。これは、3月24日の放送で見ればファンも喜ぶだろうと、ちょっぴり自慢をここで言いたい。

「それで、この生原稿の現物は今どこに?」と見終わったあと聞くと、Sプロデューサーは心得たとばかりに答える。「ここにありますよ。絶対に他にぬかれないように預かっておいたのですよ。今から所有者となる梶原一騎夫人の元へ届けます。」私も同行して御礼を申し上げることにした。

赤坂見附から有楽町線で池袋に出たのが午後1時。そこから西武池袋線で大泉学園まで向かう。梶原邸はその駅からさらに車で10分、奥まったところにあった。
夫人は風邪で喉をやられたということで、玄関で挨拶だけ交わして貴重な原稿をお返しした。
昨夜のニュースが流れて以来、梶原家には電話が相次いでいる様子だった。民放のワイドショーからも出演交渉があったりニュース配信会社からも取材依頼が入っていると、奥様は語っていた。7時のニュースの影響の大きさに今更に驚く。

2時半。JR池袋、湘南新宿ラインのホームに立つ。32分の平塚行きで帰宅することにした。車中、横浜を過ぎた辺りで眠ったようだ。戸塚を過ぎてからこの記事を作成している。現在4時半。まもなく茅ヶ崎だ。

大磯の山の家に着くのはおそらく5時過ぎか。

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by yamato-y | 2007-03-03 17:44 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)


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