定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
カテゴリ
以前の記事
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
2005年 03月
2005年 02月

最新のコメント

カテゴリ:わが心のシーン( 10 )

風を感じながら

風を感じながら

園芸の番組を見ていて心に残る言葉と出会った。
育てていた植物が元気を失くし萎れ始めているのでどうしたらいいかという、視聴者の質問に答えるコーナーでのことだった。園芸研究家のその人は水やりや肥料の与え方などを説明した後、こう言った。
「室内で育てると風を受けることがないので、時々葉っぱを持ち上げて触ってあげてください。そうやって葉っぱに刺激を与えると生き生きしてきますよ。」
驚いた。風は植物にとって単に吹いているだけではないのだ。おしべとめしべを接触交合させるための媒介としての風だけじゃないのだ。風は花や草に触って、その命を賦活していたのだ。
風に揺れている野菊なんて、風情だけのことではなかったのだ。
 遠い山から 吹いて来る
  小寒い風に ゆれながら
  けだかくきよく 匂う花
  きれいな野菊 うすむらさきよ
野菊がけだかくきよく匂うのは、風が触ってあげているからなのだ。花びらを葉っぱを、さわさわと風が触ってあげるから、野の花特に野菊はやさしい。『野菊の墓』の民子が野菊に惹かれたのも当然だ。

季節違いかもしれないが、風と野菊の関係がどんどん気になっていく。
原石鼎の名作
頂上や殊に野菊は吹かれ居り
ずっと気がつかなかったが、字句には表れなかった風こそ、この句の主人公だったのだ。

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング

[PR]
by yamato-y | 2010-06-23 15:26 | わが心のシーン | Comments(0)

君知るや北国の町

君知るや北国の町

火曜日の夜行で上野を発って信越線周りで金沢へ行ってきた。40年ぶりに開かれた大学の研究室の同窓会に出席するためである。私の期と一年下の期のメンバー11人が顔をそろえた。こんなことはめったにないと、私は東京から喜び勇んで駆けつけた。金沢までの道中をいつもと違うコースをたどろうと「北陸フリー切符」というのを見つけて、それで日本海まわりのコースを利用した。
夜行列車に乗るのも30年以上なかったこと。20代の終わりに上高地へ出向くときに乗って以来ではないだろうか。深夜11時3分に特急「北陸」で出発したときはわくわくした。

同窓会の会場は、金沢の郊外、湯湧温泉。4日の朝、金沢駅に私は到着した。会場へ向かう前に、金沢在住の友人が運転する車で金沢城と現在の金沢大学を見学した。
私が学んだのは金沢城のなかにあった大学。戦後建てられた安普請のキャンパスだったが、城のなかということでなかなか趣があった。城のなかにある大学というのは、世界広しといえど、ここ金沢とドイツハイデルベルグ大学のみと誇らしく思ったものだ。数年前に大学はそこを出て郊外の山林に広大なキャンパスを確保した。現在城内は金沢市の管理地となって、観光のための往年の金沢城の復元が大規模に行われていた。まったくの観光地と成り果てていて落胆した。昔学んだ校舎のあった空間には松の木が卑屈に立っていた。

金沢は都市計画で車社会適応型になってしまったから、昔の城下町の風情がまったく消えた。あるとすればわざとらしい東の遊郭のような風景しかない。武家屋敷もまるで時代劇のセットのような土塀や門が設えられて、くらしや人の匂いのまったくしない代物となっていた。
金沢の人たちが向山と呼んだ卯辰山に、学生時代よく登って、夕方の東山界隈を眺めたものだ。当時高い建物はなく、白い瓦屋根の家々が懐かしげに密集していた。かまどの薄青いけむりがたなびく様は泣きたくなるような風景だった。あの眺めはもはや望むこともできない。

よそ者のノスタルジーといわれればそうだが、私のなかには雨の美しい町金沢、雪の“暖かさ”を秘めた金沢、が忘れることはできない。細い路地や狭い辻にはひとの匂いがした。今ではほとんどの道は車が通れる2車線以上の広道となり、町のあちこちに駐車場の「穴ぼこ」が虫食いのように広がっていた。

夏の日差しを思い切り受けて、私はひとりで彦三(ひこそ)の町を歩き回った。高級武士たちの住まいが多くあった界隈である。8月の太陽が照らす道には人影はない。段丘を下って浅野川のほとりに出た。主計町をぶらぶらしていると、京都の川床と同じような櫓があった。最近ではこういうサービスも始まったのだといささか鼻白む。浅野川大橋まで歩いて、たもとで一服。だらだら流れる汗を拭きながら、浅野川べりの柳を眺め、対岸の東山を見晴るかした。一瞬だけ車の騒音が消え、川のせせらぎが聞こえたような気がした。このときだけ、昔の金沢が少し浮かび上がった。
北鉄の白と赤のツートンカラーの電車が走っていく、幅員の狭い2つ扉の小さな車体をごとごと揺らしながら・・・。

その夜開かれた宴会は楽しいものであったが、夜が更けてなにか私のうちに嫋嫋たる秋風のようなものが吹きぬけていく。
この旅の終わりになって、ふと振り向くと、言いようの無い寂しさがぽつんと残った。意外な結末であった。
でも、古い友と再会した喜び、若くして亡くなった恩師の遺影に接することができたこと、かけがえのない時間をもつことが出来たと、幹事たちに感謝している。

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
 
[PR]
by yamato-y | 2009-08-05 23:31 | わが心のシーン | Comments(1)

最後の講演

向田邦子、最後の講演

「オール讀物」12月号が向田和子さんから届いた。何だろうと思ってページを繰ると、向田邦子の特集があって2つの記事があった。1つは「向田邦子、最後の講演『怖いことば』」。もう一つは向田和子「母のお辞儀・享年百歳、母・向田せいを悼む」。
先日、せいさんが亡くなっていたということが報じられたが、実際には今年の9月初めに逝去していたことを知り、その長寿ぶりに驚くとともに、「密葬」にされた和子さんの思いがなんとなく分かった。そのせいさんの思い出を和子さんが書いている。

 せいさんが米寿のお祝いのときにこどもたちに話した言葉。「お願いがあります。私が死ぬまで飛行機には乗らないでほしい。自分勝手で理不尽なことだと判ってのことです・・・」といって深々とお辞儀をしたそうだ。邦子が51歳で飛行機事故で亡くなった哀しみはいかばかりか。生前、せいさんは他人の前ではそういうことはけぶりにも出さなかったそうだが、内心たえず逆縁の苦悩をかかえていたのだ。
 先日、実家へ帰ったときも、83歳になる母はさかんに「長生きするのもいいけど、子供より長生きするなんて苦難にだけは遭わせないでくださいって、神様にお祈りしている」とこぼした。間近にそういう思いを知らされたばかりだけに、せいさんの淡々とした挨拶の言葉が悲しい。

 向田の「最後の講演」というのはスクープだろう。1981年2月に広島で行われた講演を、ある人が克明に記録していた。それを講演口調に再構成したのが、本記事である。向田という人はあまり講演をしなかった人だから、この半年後の不幸を考えると、これがおそらく最後の講演ということであろう。この講演のなかで、向田はある言葉を恐れていると語っている。
 《自分の状態によっても、言葉は変化します。たとえば、あたくしは6年前に乳がんの手術をしました。それからは、本を読んでも「死」という字が飛び込んでくるようになったのです。》
このエピソードは、邦子のエッセーでも読んだことがあるが、40代後半は乳がんの再発をかなり恐れていたのだ。ところが、母同様、邦子はまわりにはそんなことを気にしないかのように振る舞っていた。それだけに、この言葉を怖れた邦子の「泣き叫ぶような魂」が透けてみえてくる。

 ところで、講演を行った1981年2月25日。この日に、広島平和公園にローマ法王が来ている。雪が降っていたそうだ。

 
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
[PR]
by yamato-y | 2008-12-03 08:03 | わが心のシーン | Comments(0)

土砂降りの京都

雨の京都に来た。
昼過ぎ、新幹線を降りて地下道を通って、バスターミナルに出る。猛烈な雨。折りたたみがお猪口になりながら、カートを引っ張って、錦林車庫行きに乗車。
雨で渋滞気味の河原町通りを走って、百万遍に着いた。

12時前だったので、生協のルネに寄る。新学期が始まったばかりで、書店には、各授業で使用する教科書が並んでいる。たいてい、その先生の執筆したものばかり。
あった、あった。私の『ドキュメンタリーを作る』が文学部のコーナーにあった。少しニヤリ。

大学の書店はいい。一般書店ではなかなか見ない書がたくさんある。さらに、ここでは京大出版会から出たギリシヤ哲学の叢書が手に入る。アリストテレスの『魂について』を思わず買った。

雨のなかキャンパスに向かう。人が多いな。
主任教授に挨拶をして、生協食堂へ行くと、学生が並んでいた。
そこで思い出した。4月は新入生がみな学食を利用するのだ。だから、キャパシティを越えるから、この時期は学外でなければいけないということを思い出したのだ。

慌てて、百万遍交差点そばのカレー屋に飛び込む。雨がだんだんひどくなる。

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
c0048132_1929456.jpg

[PR]
by yamato-y | 2008-04-18 10:06 | わが心のシーン | Comments(2)

今夜は花火大会

夕暮れのもみじ山
c0048132_18585499.jpg
今夜は花火大会
大磯へ戻ってきた。ツヴァイク道に入ると、ひぐらしが合唱していた。
やはりもみじ山は美しい。
家に戻って風を通す。屋上に上がると相模野には陽炎のようなものが揺れている。

日が没する頃小雨がぱらぱらと来た。あれえ、今夜の花火大会はどうなるのだろうと思っていたら6時半を廻ると雨があがった。

今夜は少し資料を読み込もう。明後日、大学生たちに話をすることになっているのだ。
話のモデルは小松左京だ。彼は京大文学部イタリア語科を卒業している。この人の風貌とか関西弁に眩惑されてしまうが、実に知性的な人物だ。この人の生き方を例にとって文学部で学問することはということを語ってみたい。

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
[PR]
by yamato-y | 2007-07-28 18:59 | わが心のシーン | Comments(0)

ソフィーの選択

ソフィーの選択

無性に本格派の文藝映画を見たくなったので、昨夜渋谷ツタヤへ行った。あの膨大な映像の倉庫からそのときの気分の1本を探し出すのは至難だ。特に最新作ではどれほどの内容か分からない。旧作の棚を漁った。そして取り出したのが「ソフィーの選択」だ。

メリル・ストリープ主演の作品で原作はあのW・スタイロンだ。ナチのホロコーストを背景にもつ小説だ。かつてこの映画は見たことがある。そのときも物語の巧みさと映像の深い質感に感動した記憶がある。

 第2次世界大戦の傷がまだ生々しい頃、スティンゴは南部からニューヨークに出てきてブルックリンのアパートに住む。そのアパートで口汚く言い争っている男女を知る。その女が女ソフィー(メリル・ストリープ)だった。彼女はポーランド人でアメリカに来て間がなく英語がおぼつかない。彼女の腕には囚人番号を刻んだ入れ墨がありアウシュビッツの体験を秘めていた。

 以前にこの映画を見たときの味わいは、ユダヤ人ソフィーの悲しみであると解していた。彼女はユダヤ系のポーランド人で、強制収容所へ二人の子どもと連行されたとき、そのうち一人を助けるとドイツ兵に言われ、その「選択」に苦悩するというテーマだとなんとなく記憶していた。ところが今回見直して、その「読み」が大きく過っていることに気づいた。

 ソフィーは嘘吐きだった。彼女の父は高名な大学教授でユダヤ人を助けようとした人物だとソフィーは語っていたが事実はそうではなかった。父も彼女もカトリックでむしろユダヤ人を排斥する側にいたのだが、ドイツ軍は詳細を調査することなく父を連行し、彼女もまたソーセージを闇市で買ったことを理由に強制収容所に入れられたのだ。この事実を最初ソフィーは隠している。

 ブルックリンのアパートでソフィーが喧嘩をしていた相手ネイサンは、ユダヤ人で大手の製薬会社に勤める研究者で、同棲をしている。そのネイサンが興奮して叫ぶ言葉「わかるかソフィー、俺たち死ぬんだ」が深い意味をもっているのだ。ネイサンはナチの犯罪を許すことができず、しかも分裂症をかかえこんでいた。彼が語る製薬会社の研究員も妄想でしかなかったのだ・・・・・。
ネイサンの部屋へ入ると、ナチ関係の本がいっぱい。ユダヤ人である彼はナチの犯罪が許せないのだ。

 と物語を語ってもきりがない。原作が複雑に入り組んでいるのを少し端折って映画化したのだろう。いくつか理解しがたい部分がある。そういうことが重なって最初に見た、被害者のソフィーという理解になったのだろう。むろん、その部分はあるのだが、それほど人生はすっきりと割り切れない。囚人となったソフィー自身がかかえこんでいた「負い目」、のようなものが映画全編にざらっと流れている。それが見るものを息苦しくさせる。

 終わって深夜ニュースを見ると、社保庁の失態を追及する特集が流れる。そこに出てくる人物の間の抜けた感じがどうしても不快となる。



来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
[PR]
by yamato-y | 2007-06-26 08:12 | わが心のシーン | Comments(0)

夜の桃

Mizumakuraの起源

俳人とはよく言えば風狂、はっきり言えば変わり者が多い。世間のタガが外れているから凡人のわれわれは憧れ、かの人が作る句を読んで引かれるのだろう。

私がこのブログの号に使っているmizumakuraは、西東三鬼の句からとっている。
 水枕ガバリと寒い海がある
この句は、三鬼が急性の肺結核で高熱がつづいたときに得たものだ。

三鬼は写真を見ても分かるとおり悪美男だ。コールマンひげをたくわえた風貌はダンディにして胡散臭い。
戦前のシンガポールで歯科医として働いていたという経歴からしても胡散臭さは半端ではない。

戦時下の昭和17年から21年まで、三鬼は神戸のトーアロードにあるホテルに身を沈めていた。白系ロシア人、トルコ人、エジプト人や朝鮮、台湾の人に、日本人12人がいた。日本人の10人はバーで働く女たちであった。ここで、三鬼は通りを行く人の姿を日がな一日眺め、女たちや外国人の相談に乗るという無為の暮らしを送った。

まるで芝居の世界だ。実際、これはテレビドラマにもなった。三田佳子が主演した「冬の桃」である。演出は夫のタカハシヤスオさんがした。この題「冬の桃」は三鬼の句に由来する。
中年や遠く実れる夜の桃

夜の桃が最初の題であったが卑猥だという意見が出て冬の桃にしたさと、ヤスオさんから話を聞いた。彼の行き付けの飲み屋の棚にます酒の枡が並べてあって、その底に言葉を記して自分専用だと分かるようになっている。そこにヤスオさんは、「中年や」の句を書きつけていた。

三鬼はいろいろな女と浮名を流したが、本当はどうやらババ専だったという話がある。18歳のときに母を失っていて、終生母を恋しく思ったというのだ。こんな句がある。
緑陰に三人の老婆笑へりき

先の神戸のホテルだが、三鬼のもとへ波子という女が転がり込む。東京時代に知っていたチャブ屋の女だ。彼女はある男を追って神戸まで来たが理由あっていっしょになれず、ジャワのカフェーの女給にでもなろうと神戸から乗船するつもりでいたのだ。ところが、彼女の仲間が事件に巻き込まれたため、巻き添えをくって足止めになり、たまたま旧知だった三鬼のもとへやってきたのだ。

仲間が関係した事件とは「ゾルゲ事件」だ。

三鬼自身、京大俳句事件に連座して京都警察本部によって検挙され、釈放された身となって神戸にふらふらとやって来ていた。

こんな三鬼の戦後は、俳句とともに生きる。晩年、葉山に住んだ。そして昭和37年に62歳で死んだ。そこまで、私はあと三年。
ちなみに、同じ風狂の俳人種田山頭火は享年59。今の私である。私の場合、馬齢59。

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
[PR]
by yamato-y | 2007-03-19 13:24 | わが心のシーン | Comments(0)

尋ね人の時間

尋ね人の時間

最近、街角ですれ違う人の特徴から昔の同級生を思い出すことが多くなった。その人自身と出会うわけではない。その人の特徴を彷彿とさせる同系の人を見ると、その人物を思い出し無性に逢いたくなる思いがつのる。といって、逢えばそれほどの感慨もあるわけではないが、どこに住んでどうしているのかぐらいだけ知れればいいのだが。おそらく、その人を恋しいというよりその時代の自分を取り戻したいという欲求がそうさせているのだろうか。

さて、現在は人を探すのがとても難しい時代になった。理由は大きく2つある。一つは個人情報の守秘が厳しくなったこと。もう一つは人の流動化が従来の数十倍数百倍激しくなったことだ。

私のディレクター駆け出し時代には、お寺の過去帳というのは簡単に閲覧できた。歴史的な人物などはそれを頼りにすればかなりの情報を得ることができた。況や住民票、戸籍、同窓会やもろもろの住所録などを使えば、それなりの消息というのは把握できた。

むろん、今ではそういう個人情報は無断に使用したり開示したりすれば、それなりのペナルティがつけられることになる。情報時代ゆえ、情報が悪用されれば大きな被害を受ける恐れがあるから当然の措置だとは思う。

だが一方、私たちには「ノスタルジー」というものがある。団塊も還暦をむかえる頃になると、“行く末”より“来し方”への関心のほうが大きくなるのだ。ああ、あの人は今どうしているのだろう、元気でいるのやら、と夜更けや明け方に思って眠れないということが、しばしば起こるのだ。こういう感情は若い頃には思いもよらなかったが。

年賀状をやりとりするぐらいの親しさであれば、それなりの情報もつかめる。困るのはまったく接点がない人物の場合だ。私自身も冷静に考えれば逢いたいという理由が見つからないような人物なのだが、いったん面影または名前がぽつんと心に浮かぶと、逢いたいという思いが「つのる」のだ。つのるを括弧にしたのは、この言葉本来のような激しい感情ではないからだ。逢いたい、逢って消息さえ分ればいい。ときには逢わなくてもいい、ただどんなふうに生きているかだけ知ればいい。という程度の感情なのだ。だから正面きって探すのもきまりが悪い。

具体的にいうと、田舎の小学校で同じクラスだった子、転校していった子、中学校でクラブの先輩だった人、大学でコンパを共にした人、旅先で知った人、長く通った酒場街のマスターや常連客。人の紹介で逢った人。もっと縁が薄く、ただ何となく気になっていた人。
 しかも厄介なことに、これらの人が異性であればなおさら探しにくいし会いがたい。

若い人たちは、ミクシーなどソーシャルネットワークで、そういう人探しが簡単にできると聞く。われわれのような中高年にはネット人口が限られているし、そういうネットワークに参加する機会も相当少ない。

そこで私は夢想する。ネットの「尋ね人の時間」ができないかと。おそらく掲示板などでは一部そういうこともやっているだろうが、私はもっと大規模なシステムを夢想するのだ。
「昭和19年、中国青島、○×区にお住まいだった△○さん、…」と昭和30年代までラジオで放送された「尋ね人の時間」。これと同じようなことを期待するのだ。

もちろん、情報の管理、秘匿という重要な機能を、きちんと責任をもって行うような機関。そういう公明な機関が運営するような「尋ね人の時間」。
そういうものが出来ないかな。有料でもいいんだよね。

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
[PR]
by yamato-y | 2007-01-18 00:31 | わが心のシーン | Comments(0)

仕事幸兵衛

仕事幸兵衛

 番組の制作現場に30年いると、職場の雰囲気、従業員の気性というのも把握できるようになるものだ。
近年若いディレクターたちがインディペンデントでなくなりつつあると思えてならない。

ついしっかりしろと小言が出そうになる。その言葉を飲み込んで川柳にしてみた。

ディレクターよ パソコン見ずに 現場見よ
取材を現場まで行かずに、ネットで情報を調べて、企画書を“でっち上げる”ことが少なくない。そうやった企画はたいてい実際のロケ段階で立ち往生することがよくある。事件は現場で起きているのだ。

現説で 判断できず 泣く技術
現説とは(現場説明)のこと。中継番組では技術スタッフが10数名参加する。その番組の指揮はディレクターがやるのだが、問題が発生してもなかなか判断できないという者がいる。方針が決まらず、周囲のスタッフはおおいに迷惑する。

批評する そいつはロケの 出来ぬD
Dとはディレクターのこと。他人の番組のオンエアーを見て、けちをつけてばかりいる者がいる。批評するほどの実績も残していないくせに理屈ばっかり言う。そういうのにかぎって、ロケをして来たラッシュを見るとたいしたことがない。それで言い訳ばかりを言う。あのときはちょっと天気が悪くってとか格好の人物がつかまらなくってとか、編集室で釈明ばかりする。
言い訳で 終わってしまう 編集室

おまけに企画を立てられず、人が立てた企画提案で仕事をするくせに、その企画に対してクレイムばかりつけるのだ。こんなテーマはかつてやった、こんな話は時代遅れだ、と。
提案を 出せないくせに 文句言う

私はまだ出会ったことがないが、今日からロケが始まるという日に、カメラや音声が集まっていても、姿をなかなか現さないディレクターがいるそうだ。いざ本番になったらびびってしまうというタイプだ。ひどいのは体調不良で休む者がいる。自分で企画を立てておきながら無責任極まりない。
ロケに出る日 姿を見せぬ ディレクター

だが努力をすれば報われることもある。天網カイカイ疎にして漏らさず。
天はそういう者を見捨てない。

コツコツと 取材重ねて 感謝され

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
[PR]
by yamato-y | 2006-11-17 13:33 | わが心のシーン | Comments(0)

わが心の場面(シーン)

大和、帯解・・・

さきほどタケ先生の待合室で、三島由紀夫の邸宅の写真集をぱらぱら見ていた。有名なロココの庭園、バルコンに続いて書斎があった。書架の本をのぞくと、半分は知っている書名なので安心した。
そして、最後の原稿の大写しがあった。言い遅れたが撮影は篠山紀信である。

原稿は『豊饒の海・天人五衰』の最後の場面だ。奈良帯解の円照寺の日盛りの庭だ。
小説では月修寺となっているその場――庭は夏の日盛りの陽光あびて、しんとしている。・・・と、三島の端正な字が原稿用紙を埋めていた。これを見たとき、ある情景をまざまざと思い出したのだ。

おそらく三島が死んで2年後の昭和47年晩秋だったと思う。私は女ともだちと一緒に「豊饒の海」ゆかりの円照寺を訪ねた。そこは交通の不便な桜井線の帯解(おびとけ)にあった。

臨済宗円照寺は格式の高い寺で、斑鳩の「中宮寺」、奈良は佐保路の「法華寺」と共に大和三門跡の1つで、代々皇室関係が門跡となり、別名山村御殿とも称されたほどの寺だ。出入りは厳重で、私たちが訪れたときも門前払いをくらった。寒気のつよい日だった。
仕方がないから内部の拝観はあきらめ、寺の周囲を2時間ほどめぐった。日没が近づいたので駅へもどった。円照寺がわが心のシーンではない。

その駅の情景が忘れられないのだ。脳裏に焼きついている。夕暮れを古語で「かわたれ」と言うが、その言葉の響きのような美しい夕焼と暗闇があった。陽があたったところはあかあかと家並町並みが見えるが、それ以外は漆黒の闇が押し寄せていた。

上りのホームは駅舎から線路を越えて対岸にある。その通路を渡りながら線路の彼方を見ると、夕焼が今消えてゆくところであった。最後の光を浴びて浮かび上がった帯解の家並は昔ながらの古い家々がひっそりとシルエットになっていた。
この情景は、それから10年ほど経って山口百恵が歌った「いい日旅立ち」を聞いたとき甦った。♪ああ、日本のどこかに、私を待ってる、人がいる

30年、映像の仕事をしてきた。その間、心に残った映像や、見て感動した実景が、私の中で区別なくある。それは、なぜ心の乾板に焼きついたのか、自省しながら、取り出して行きたい。1001本目の記事にこめる思いだ。

来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング

旧街道沿いの帯解の町
c0048132_032276.jpg

[PR]
by yamato-y | 2006-08-23 23:46 | わが心のシーン | Comments(0)


その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧