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by yamato-y
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カテゴリ:大伴昌司の遺産( 79 )

太陽の塔

太陽の塔

 岡本太郎生誕100年を記念したドラマが流れた。3年前に、少年週刊誌の創刊時代をドキュメンタリードラマで描いたときのことを思い出した。実在の人物をドラマとドキュメントであぶり出すというのは、思った以上に苦労と手間がかかるものだった。だが、長年映像化したい、サブカルチャーの歴史だったからやりがいがあった。このときに集めた少年サンデー、少年マガジンの関係者の証言やブツは今も大切に保存してある。今度、京都に行ったときに、専門家である吉村先生(京都精華大)にでも相談してみようかしらむ。先生は漫画ミュージアムの有力な研究者でもある。
 それにしても、岡本太郎のドラマはよく出来ていた。登場する人物があまりに多彩でかつ深い。特に太郎の母かの子を演じた寺島しのぶは実に良い。物語は、太郎の幼少の時代と大阪万国博の時代がカットバックして進行する。第1話は、太郎が万博のプロデューサーに就任し、太陽の塔の原案を思いついたところで終わった。
来週は、その塔のイメージが豊かになって行く過程にスポットをあてるのだろう。
それを見てからのほうがいいかもしれないが、この塔にわが大伴昌司も少なからず関係しているということを、少し触れておこう。

 大伴の父、四至本八郎は戦前岡本一平と親交があった。八郎がサクラメントの日系新聞で記者だった頃、渡米した一平を親身になって世話したことから始まる。その友情の証のように、今も、四至本家の玄関には一平の「ポンチ絵」が架かっている。
 両家は家族そろって交流した。太郎の代になっても、八郎はよく付き合った。
 昭和30年代、まだ海外渡航が解禁になっていない頃、八郎と太郎はある団体の招待で、アメリカ西海岸を視察することになった。在米体験のある八郎を太郎は頼りにした。太郎はパリに長く住んだが、アメリカにはまったくの不案内だった。

 団体の決めてあったスケジュールに沿って旅はすすめられたが、あるとき、ぽっかり予定が空いた日があった。八郎は、昔の体験を生かして砂漠地帯にある先住民の部落へ案内することにした。インディアンの村である。そこで、大きなトーテムポールを太郎は目にし、感動するのだった。帰りのバスのなかで太郎は八郎にポールの迫力、感動について熱く語った。 
 アメリカから日本への帰って来る空路でも、太郎はトーテムポールのスケッチを何度も描き直していた。その姿が、八郎の心に残った。

 昭和45年、万国博が始まると、大伴昌司は頻繁に大阪へ取材に出かけた。息子が持ち帰った資料のなかに岡本太郎の太陽の塔があった。それを目にした八郎は、あのときのトーテムポールがこんな形で表されたのだと悟った。八郎の直感では、太陽の塔の原イメージはあの先住民の村に建っていたトーテムポールだった。

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by yamato-y | 2011-02-27 09:45 | 大伴昌司の遺産 | Comments(1)

大切な大伴昌司の作品

大切な大伴作品

久しぶりに、大伴さんのお母さんを訪ねた。今年の夏の終わり、母と同じ頃に倒れたこともあって、私は両方に関わっていたのだが、11月頃から母の容態が危うくなり、大伴さんのお母さんは恢復に向かったので、足が遠のいていた。
今日、母の死を告げると、とても悲しそうな顔で私を心配してくれた。1時間ほど話し込んだ。

そのあと、大伴さんのアトリエに入って、久しぶりに内部の点検をした。
いくつか、大事にしていたものが見当たらない。私の勘違いかもしれないと思って、お母さんに聞いたが、部屋を片付けたことはないということ。
やがて、お手伝いさんが来たので、聞いたが、彼女も何も触っていないという。ふしぎだ。
大伴さんの原画の一部がどこかへ紛れ込んだのだろうか。 

新年が明けて、私の体のことも決着がついた段階で、再調査をやる。もしかすると、不心得ものが持ち去ったということも考えられるから。もののコピーはすべてとってあるから、行方不明の作品を特定して、盗難届けを出そうと思う。これまでも、中野や秋葉で大伴作品が出たことがあった。大伴さんからもらったとか大伴さんの弟子だったとか称している輩がいるらしい。大伴さんは、自分の原画を他人にあげるということはけっしてしなかった人。当時としては珍しく著作権、原画権の意識をもつ人で、他者に進呈するなどということはありえない。すべての作品に、OHと判こを押すほどの人だ。
大伴さんの最晩年の助手をやっていた人から直接聞いたが、大伴さんは性格からいっても、絶対に弟子という存在をもたなかったそうだ。

大伴作品は、アートだと私は考えている。だから、京都大学に寄託というかたちで研究をお願いしたのだ。
将来、大伴昌司記念館を作りたいと、お母さんとも相談しているので、ぜひ作品の確保は厳重にしておきたいのだ。

先年、大伴さんが手塚治虫から描いてもらった、署名入りの「りぼんの騎士」の画が、あるシナリオ作家のもとにあることが分かった。
これも返還をもとめていくことになるだろう。

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by yamato-y | 2009-12-29 17:50 | 大伴昌司の遺産 | Comments(3)

KAIJU

KAIJU

怪獣という言葉は今や世界語になりつつある。KAIJUである。マンガ、アニメ、オタクという言葉と並んで、世界で流通している。

昨日、カナダ人のアイヴァンさんと会った。フリーランスの編集者であるアイヴァンさんは、日本の文化を紹介する英語の本を造ってきた人だ。今度、怪獣のムックを作るので、大伴昌司の図解を使用したいという件で、私に会いに来たのだ。私は、大伴のお母さんから著作権について委任されているので、代理で話を聞くことにした。

アイヴァンさんはムックの見本をもってきていたので見ると、アイヴァンさんが相当な眼力の持ち主であることがよく判る。きちんと、妖怪と怪獣を区別している。角川怪獣と東宝怪獣の差異もしっかりとらえている。怪獣文化の広がりとして、玩具、怪獣切り絵、イラストなども視野に納められている。なにより、怪獣の存在を馬鹿にしていない。日本文化を考えるうえでの指標として怪獣を大切にしていることがよく分かった。ムック巻末の怪獣マンガは原作がアイヴァンさんで、画は若手の漫画家に描いてもらったという。

そのムックの「機能比較」「断面図」の章で、大伴図解を使いたいとアイヴァンさんは申し出たので、この人物なら大丈夫だと判断して私はこころよく応じると伝えた。

そこで、メインの話し合いを終えて、私のオフィスに来てもらって、アイヴァンさんの意見をうかがうことにした。彼のポップカルチャーに対する造詣の深さに感服したので、なぜそういうことに関心をもったのか、これまでどんな取材、研究をしたかなどいろいろ聞きたかったのだ。さらに、書棚に置いてある大伴昌司の文献や資料を見せてあげたいという気もした。(これは、私のイタズラ心も半分ある)
案の定、アイヴァンさんは大伴の原画コピーを見て喜んだ。特に「怪獣進化の図」には度肝を抜かれていた。目を丸くするアイヴァンさんを見て、私がにんまりしたのは言うまでもない。

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by yamato-y | 2009-07-08 14:27 | 大伴昌司の遺産 | Comments(3)

裏白洲次郎

裏白洲次郎

今夜のNHKドラマスペシャル「白洲次郎」は、久しぶりに大人の鑑賞に耐える作品を提供していた。
白洲夫妻については、ここ数年”異常”な人気があったから、ある意味で時宜を得たのかもしれない。ドラマのレベルは高いと思った。
今、私自身ドラマを研究しているから、このテレビドラマがどれほど凝っているかは理解できた。私がやろうとするドラマなど、予算において一桁いやもっと低いかもしれない。相当贅沢な番組だった。それと配役がよかった。主役の白洲夫妻を演じた伊勢谷裕介と中谷美紀は見事な演技と存在感だった。晩年の次郎の神山繁はいただけない。

伝記のドラマだから、登場する人物は実在している。だから、すべて事実かというとそうはならない。次郎のリベラルなヒーローぶりは格好良すぎではあった。それが悪いというわけではないが、歴史の事実を知らない若者たちが見れば、宮中反戦グループはさもレジスタンスを貫いたようにみえ、リーダーたち貴族のあり方にも無批判になってしまうかもしれない。
ドラマの最後に、「これは事実にもとずいたフィクションである」とテロップが出ていたのは、まあ順当な措置だろう。

さて、本日、大伴昌司の母四至本アイさんを訪ねた。100歳の傑女だ。夫は四至本八郎。20年ほど前に亡くなっている。この八郎は、実は白洲次郎のように表には出なかったが、同じ軌跡を歩いた人物だということを、アイさんは教えてくれた。
八郎も次郎同様アメリカの大学を卒業してアメリカでジャーナリストの腕を磨く。そこでルーズベルト人脈との交流を深めて帰国。その政策を報告した『ブレーントラスト』は戦前のベストセラーとなる。その米国通をかわれて、八郎は近衛内閣のブレーンとなる。やがて、政府からメキシコとの貿易振興の斡旋所の所長となってメキシコへ派遣される。

戦後の八郎の活躍(暗躍)こそ裏次郎にふさわしい。
昭和25年クリスマスイブの日に副総理の上原とともに羽田を立ってアメリカに向かう。時の首相吉田茂から直々に依頼されたのだ。日米講和条約の根回しにワシントンに向かったのだ。講和は大統領が認めるだけでは成立しない。上下両院の議員の同意も必要なのだ。その議会への働きかけを、八郎は上原とともに3ヶ月にわたり行った。
帰国したのは翌年の3月3日、ひな祭りの日だったから、アイさんはよく記憶している。それから半年後、吉田茂は白洲次郎を連れて、条約調印に向かったのだが、八郎は表には出ないでその達成を裏で動いていたのだ。

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by yamato-y | 2009-02-28 23:47 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

99歳の記憶と実感

99歳の記憶と実感

昨日は、およそ4時間にわたって大伴昌司母堂アイさんの話を聞いた。アイさんは来年数えで100歳である。福島県の出身で、宇都宮の女学校を卒業後東京に出てきて通信社の女性記者として活動し、25歳で結婚して、大伴昌司を得た。結婚相手はアメリカ帰りの評論家四至本八郎である。彼は大阪泉州の出身で早稲田を卒業後アメリカに渡り、カリフォルニア大で学んだのち、サンフランシスコの日米タイムスの記者として筆を振るう。帰国後はアメリカでの知見を広く世間に伝え、「頭脳(ブレーン)トラスト」など戦前のベストセラーをものした。

アイさんの女性記者時代の数奇な人生は最近荒俣宏氏が聞き書きして、ある銀行のPR誌で紹介され話題になった。出口王仁三郎や林芙美子と直接言葉を交わした体験が実にみずみずしく表されていたのだ。

99歳の記憶はあまりに膨大だから、ここでは夫八郎にまつわる戦後史を少しだけ記す。サンフランシスコ講和条約の前の年のことだから1950年の出来事だ。
その年のクリスマスイブに夫の八郎は長野県選出の代議士植原悦二郎といっしょにアメリカに旅立った。日本の独立を求めてアメリカ国務省との交渉にあたるためだ。この機密命令は当時の首相吉田茂筋から来た。アイさんは詳細を聞かされていないが、うすうす感じた。植原は副総理格だった。ワシントン州立大学出身の植原とカリフォルニアでジャーナリストとして活躍した八郎の二人がその重大な任務を与えられたのだ。

当時、アメリカ占領軍はまだ進駐を続けたいと考えていた。というのは、本国に帰ってもたいしたことのない連中だが、占領国にいるかぎりにおいては好き放題なことができる「利権」を手放したくなかった。だが、この連中と関わっているかぎり、日本の発展は望めないと一日も早い独立を吉田茂は目指した。と、アイさんは解説してくれた。なかなか面白い話だが、どれほど実体があるだろうか。この辺はウラをとってみないといけないだろう。いずれにしても、占領からの脱出は日本人の悲願であったのだろう。

1950年のクリスマスは寒い日だった。羽田から飛び立つというノースウェストのプロペラ機はみすぼらしくこれで太平洋を飛べるのかとアイさんは思ったそうだ。航路はアリューシャン列島を飛び石のようにした。
このとき、八郎が支給されたのは一日25ドル。こんな金額ではワシントンでは安宿にしか泊まれず、アメリカの役人から見透かされる。所持金を個人的に工面すべきと、上原は株券を売った。八郎は貯金をおろしニコンのカメラを2台買った。これをアメリカで売却して得た300ドルをもとに500ドル所持した。これらはあくまでポケットマネーで、その後も日本国から何も支給されていない。アイさんはこう言った。「昔の政治家は国のためには自分の財産も投げ出すという気概がありましたよ」
こうしてワシントンに入った二人は次の年の3月まで、毎日国務省とやりあった。
帰りの飛行機は軍用機でグアム島に到着し、そこから日本へ帰還となった。

そして7月。吉田茂はサンフランシスコに出掛けて、講和条約に調印し、日本の占領が終わることとなる。

八郎はおしゃべりで、何でもアイさんに話す人だったが、このときのことはいっさい口を噤んだ。何があったか、誰と交渉したか、いっさい話をすることもなかった。こういう「覆面大使」の出来事があったと自慢することもないままこの世を去っている。

私は初めて聞く話だった。アイさんの証言がどこまで歴史の事実と合致するのか知らない。だが、その具体性にはひかれるものがある。少し、占領史でも紐解いてじっくり調べてみたい。一方、100歳の証言は今のうちにできるだけたくさん記録したいと考えた。
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by yamato-y | 2008-12-30 09:14 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

父子碑

大伴昌司と父の顕彰碑

12月3日に、大伴昌司と父四至本八郎の顕彰碑が建てられた。
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場所は大阪府岬町淡輪(たんのわ)。父八郎のふるさとである。南海本線で難波からおよそ1時間、紀州との県境にある。大阪湾のほとりにあって、対岸には淡路島が見える美しい地だ。
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淡輪駅は改札口が一つしかない小さな駅舎。そこから浜の方に向かって100メートルほど下っていくと信号のある交差点が見えてくる。その四つ角の一角に顕彰碑は建っている。
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碑は向かって右に父の業績、左に大伴の業績が刻まれている。横2メートル、縦1メートルほどの黒御影石の立派なもの。
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人物は大伴の縁戚にあたる柴崎覚さん。この柴崎さんは地元の名士で、八郎伝説には詳しい。
見つめているのは、大伴のルーツとなった四至本家があった場所。顕彰碑から200メートルほどのところにある。20年前までここに古い屋敷があったのだが、無住となって荒れたので廃棄された。敷地は600坪ほどの広大なもので中央に巨樹がそびえている。

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by yamato-y | 2008-12-23 17:22 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

古沼の

古沼の

昭和30年代になぜ「月光仮面」や「ウルトラマン」といったテレビ映画の名作が生まれたか。偶然ではないということを、今朝『「月光仮面」を創った男たち』(樋口尚文著 平凡新書)を読んで痛感した。

月光仮面が放映されたのは昭和33年。私は10歳、小学4年生。たちまち虜になった。
♪どこの誰だか知らないけれど という川内康範の有名な主題歌はすぐ覚えた。「ALLWAYS・3丁目の夕日」の時代だ。主人公の男の子と私は同年齢、団塊世代だ。当然だろう。この漫画の作者西岸良平も私と同じ年だから。

この33年という年は繰り返し語られるのだが、映画とテレビのメディアの大きな転換期だった。この年、映画の観客動員数は11億。史上最高である。ここから映画は傾いていく。5年後の昭和38年には半分の5億人まで落ち込む。その2年後に「ウルトラマン」が始まるのだ。

樋口が「月光仮面」で言おうとしているのは、この日本初のテレビヒーローを作ったのは映画界の最後尾にいた人たちが、テレビという新興のまだ海のものとも山のものともつかないメディアに「撲りこみ」をかけて大成功に導いたということだ。
当時、映画人たちはテレビを馬鹿にし、なめていた。自分たちの作品を「本編」と呼び、テレビのドラマは格下に見ていた。
「月光仮面」の監督船床定男は映画の助監督出身でそれまで監督演出の経験をもたない。主演の大瀬康一にしても映画の大部屋俳優だった。この下積みの人たちがテレビの初のヒーローを作り上げたのだ。

「ウルトラマン」のシナリオ作家上原正三さんに先月インタビューした。そこで一番面白かったのは、制作陣の互いのライバル意識ということだった。このドラマには2系統の演出があった。一つは東宝映画出身の監督、もう一つは円谷一を中心とするTBSドラマ出身の監督、だ。この二つの潮流がぶつかりあい、互いに切磋琢磨して熱い作品が生まれたのだと上原さんは見ていた。この二つの勢力の蝶番(ちょうつがい)の役割をライターの金城哲夫が果たしたことになる。

時代の大きな転換は点ではなくうねりのようなものだろう。花田清輝は「転形期」と表している。それをきわめて映像的な文章で表したのが有名な「古沼抄」というエッセーだ。
室町の動乱の時代、まさに転形期を生きた大名三好長慶が詠んだ連歌からそのことをつむぎだしている。その連歌とは。
古沼の浅きかたより野となりて すすきにまじる芦の一むら

ちょうど今頃の季節の連歌だ。冬枯れの沼の周りに芦が生えていて、それが岸にあがったあたりからススキが混じり、やがて野原となってススキだけとなる。芦→芦とススキ→ススキというのがまるで焦点深度の深いレンズで撮影されているかのような情景と重なって、このエッセーから転形期のイメージが与えられた。
世の中の変化、転形期とは芦とススキが入り混じるようなもの。「月光仮面」も「ウルトラマン」もそういうなかから誕生したということを、私はしっかり押さえておきたい。

今はどうか。テレビからネットに変わっていく転形期・・・。

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by yamato-y | 2008-11-08 11:28 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

天空の星から帰ってきたのかい

天空の星から帰ってきたのかい

今日1日、大伴昌司の世界だった。
午前10時、池上の駅で京大のS先生と院生のK君とまちあわせをする。
3人で大伴昌司の仕事部屋を撮影することにした。99歳の大伴のお母さんは元気よく我々を迎えてくれた。応接室に入るなり、お母さんが嬉しそうに報告する。
「今朝、不思議なことがあったのですよ。誰もいないあのアトリエに行ってみたら、あの子が使っていた机のライトがともっていたのですよ」
また、大伴さんが舞い降りて来たようだ。彼の「霊」がイタズラっぽくやって来ることは、故内田勝少年マガジン元編集長から何度も聞かされていたからだ。私自身も25年前に彼の番組を制作するときにいくつか経験している。

正午までアトリエ撮影をして、午後から鎌倉に移動した。大伴さんのお墓の撮影をするためだ。25年前に、私は大伴さんのウルトラ星のお墓は詣でているが、もう一つ、新しく出来た個人の墓は知らない。その個人墓とウルトラ墓の二つとも鎌倉にあるということで、撮影も兼ねて墓参することにした。

鎌倉の駅には知人で鎌倉在住のMさんが待っていてくれた。地元の案内をかってでてくれたのだ。4人で、まず妙本寺にある個人墓を訪ねた。駅から7、8分の場所に妙本寺はある。街中とは思えないほど森閑とした寺域だ。ここは比企一族が滅ぼされた歴史的に有名な地でもる。
大伴さんのお墓は墓地の奥、佐竹矢倉と呼ばれる洞穴の隣にあった。私ですらこの個人墓の存在は数年前に知ったのだが、どうやって知ったのだろうか、おおぜいの大伴ファンが墓参に訪れているらしい。墓前に怪獣やウルトラマンのフィギュアがいくつも並べられてあった。さぞ、大伴さんは喜んでいるだろう。

その寺から逗子のほうへタクシーで移動。鎌倉と逗子の境にある鎌倉霊園に行った。ここは西武が開発した広大な墓地。その19区画に大伴さんのウルトラ墓がある。1973年の4月、大伴の死後3ヵ月後に建てられたこの墓には墓碑銘が刻んである。
「大伴昌司 怪獣生みの親大伴昌司は 1973年1月27日 天空の彼方ウルトラ星に旅立つ」
どんより空は曇っていたが、塩梅よく雨に降られることはなかった。鎌倉小町通りにもどったのは午後3時を回っていた。京都から来たS先生とK君は今夜の新幹線で戻る。

私は分かれてから、東海道線で大磯に戻り、夕闇のなかを帰ってきた。

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by yamato-y | 2008-09-28 21:43 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

内トラ

内トラ

しかし、よく降るよなあ。毎日、夕方になると雨模様になり、バケツをひっくり返したような大雨が降る。
昨夜は、その雨のなかを歩いてエスニック酒場で飲んだ。
座の中心は、円谷プロの満田かずほ監督。彼から、特撮映画のあれこれを聞き取りしたあとの打ち上げだ。

円谷プロ草創の頃の名作といえば、初期ウルトラシリーズ」でQマンセブンの3シリーズだ。つまり「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」。この初期の作品から満田さんは参加している。
仙台の高校を卒業後、早稲田大学に入学。学生時代からTBSでアシスタントディレクターとして働く。そのときに社員だった円谷一に可愛がられ、ドラマのあれこれを間接的に指導される。満田さんは円谷一を師匠と呼ぶ。一は円谷英二の長男で、円谷プロの最初のテレビ映画「ウルトラQ」を作ることになったとき、TBSから出向する。そのときに、満田は円谷プロに所属するよう、円谷一から勧められた。
最初はQの助監督だったが、シリーズの後半に第21話「宇宙指令M774」で最初の監督作品を担当する。円谷プロ生え抜き監督が誕生したのだ。その後、ウルトラマン、ウルトラセブンで活躍する。ドラマの本編部分と全体の統括を担当するのが監督で、特殊撮影のパートは専用の監督がいた。それ以外にポストプロダクションの光学処理を担当するものもいた。とにかく忙しかったそうだ。
監督をするのは必ず2本同時にスタートさせるカップリング製作を行っていたが、それでもスケジュールはぎりぎりということが相次いだ。

シリーズの1本目とか最終回を担当するのは監督にとって名誉なことだ。「ウルトラセブン」の最終回を担当したことは満田さんの誇りだ。モロボシ・ダンがアンヌ隊員に自らの正体を告白するというストーリーは1話では語れないと2回にわたって描いた。その告白の場面で見せた、逆光を使った演出は今でもファンの間で語りぐさとなっている。
ロケの苦労話を聞いた。現場は都心から車で30分ほどの生田が多かった。今では考えられない田畑や崖や林があった。毎朝、世田谷でロケバスに乗り込み現場に出かける。エキストラを集めておいても必ず2、3人来ないのがいる。そういうときは、身内のスタッフがエキストラ代行する。これを「内トラ」というんだよと、満田さんはいたずらっぽく微笑する。
そういえば、満田監督はよく画面に出ていることはファンの間では知られている。

後年、満田さんは熊本県荒尾市のウルトラマンランド初代館長に就任する。

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by yamato-y | 2008-08-31 12:54 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

飯島監督

飯島監督

飯島敏宏監督にお会いしてインタビューした。ウルトラシリーズや金妻などの名作を作り、テレビドラマで一時代を画した人だ。

監督は本郷の東大前の”下町”で生まれて育った。東京都立小石川高等学校を卒業後、慶應義塾大に入学。放送研究会に所属して脚本を担当していた。演出に大伴昌司がいた。後に二人は円谷プロで再会することになる。

飯島監督は学生時代からラジオ東京に出入りし、1957年に入社している。最初はテレビのバラエティ部門だった。当時はラジオ番組全盛で、テレビを担当させられると屈辱だという風潮があった。だが、映像の専門家がおらず、映画畑から流入する人材などが溢れていてある活気があったと、監督は回想する。TBSの社員としてドラマ作りを習得後、次々に出向をする。その一つが円谷プロだった。

1965年頃に、円谷プロで何か新しい企画が動いているらしいという噂を、監督は聞いていた。やがて、円谷の長男でTBSの同僚でもあった円谷一(監督はつぶちゃんと呼ぶ)から声がかかる。新しいドラマシリーズを開発するので手伝ってほしいと言われた。
ゴジラのようなものが登場するドラマだと聞かされててワクワクした。特殊撮影というようなことは飯島監督は嫌いではなかったのだ。幼年期に読んだ海野十三や南洋一郎の冒険小説の興奮が甦った。

最初は脚本の執筆だった。千束北男という筆名で1、2本書く。やがて、ウルトラQの第1作になる「ゴメスを倒せ」という作品を監督することになる。

物語の舞台は東海道弾丸道路の建設現場。いかにも高度経済成長の時代だ。その高速道路の工事中に地中から洞窟が発見され、怪獣が現れる。ゴメスだ。突如眠りを覚まされたゴメスは暴れ狂う。人々は右往左往する。
そのとき、古文書にこの怪獣と闘う不思議な鳥の存在が書かれてあることがわかる。それはリトラという鳥で小さいがシトロネラ・アシッドという酸の一種を分泌して、攻撃を加えるというのだ。つまり、小さい怪獣が大きな怪獣を倒すというアイディアを千束北男(つまり飯島監督)は提案し、それが採用されてドラマ作りを任せらた。

このアイディアは買われたものの、鳥を出すことには円谷英二は反対した。特撮で鳥が飛ぶというのは大変だというのだ。どうやら「モスラ」の映画撮影のとき、操演でいろいろあったらしい。
だが、飯島監督は当初の企画通りに進めて作品を完成する。これまでのドラマ作りとは違う手法でいろいろ戸惑いはあった。その一つが光学処理で、画面の合成などこの技術こそドラマの命ともいえた。そして、その達人と出会った。光学撮影担当の中野稔である。

いろいろあったが、いい感じで作品が仕上がった。そして、この作品がウルトラQの第一回に抜擢される。正月2日に放送され、37%という高い視聴率をたたき出した。第一次怪獣ブームの幕開けとなった。

学生時代からシナリオを書いていたから、円谷プロでも脚本の金城哲夫(監督は金ちゃんと呼ぶ)とは気があった。金城のシナリオ作成の流儀と飯島監督の流儀はまったく違った。監督はドラマの登場人物の設定、性格描写をきちんと決めてからストーリーを構想するのだが、金城は怪獣の出現と退治の仕方だけをばさっと決める。その掴み方が秀逸だったと監督は評価する。

2時間の予定で監督にインタビューしたのだが、まったく時間が足らなかった。怪獣文化研究会の企画なので、ウルトラQ、マン、セブンを中心に話を聞いたのだが、私としては往年の名作「金曜日の妻たちへ」についても聞きたかった。だが、時間切れとなり、夕食をとりながらささやかに伺うだけにとどまった。
しかし、70歳を過ぎても、ドラマ作りへの意欲は少しも衰えていない。いつか金城哲夫の人生を描きたいなあと飯島敏宏監督はつぶやいた。

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by yamato-y | 2008-06-30 10:57 | 大伴昌司の遺産 | Comments(1)


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