定年再出発  


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by yamato-y
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カテゴリ:賢者の面影( 27 )

早稲田古本通り

早稲田古本通り

朝一番の会議が長引き12時半までかかった。午後1時45分までに早稲田正門の前まで行くのが危ぶまれた。待ち合わせをしていたSさんとIさんに少し遅れるかもしれないと電話を入れて、慌てて社を飛び出した。タクシーを拾って渋谷駅前まで行き、山手線で高田馬場まで。地下鉄東西線に乗り換えて早稲田で降り、待ち合わせ場所に向かった。なんと到着した時刻は予定通りの1時45分だった。

文学部の教員ロビーで、美術評論家のK先生と会う。およそ2時間にわたって戦争画をめぐる戦後の言説についてレクチャーを受けた。私たちが持ち出したテーマについても、K先生は強い関心を示されたので、おおいに自信をもつことが出来た。そのことが最大の収穫だった。画を調べるのに有効な科学的手法はX線と赤外線の透視だということを知った。赤外線は下絵の鉛筆の線をたどるのに具合がいい。K先生に礼を言って、キャンパスを出たのが4時過ぎ、穴八幡前のそば屋で遅い昼飯を食べながら、取材したことをSさんとIさんと検討した。リサーチしているネタはなかなかいいことは分かったが、越さねばならない課題がかなりあることを確認。

 私は二人と別れて、早稲田前から高田馬場に向かって歩く。明治通り沿いに並ぶ古書店をひやかすことにした。20軒ほど歩いて4冊購入。シメて1400円、安い。ツヴァイクの『最初の体験』200円。幸田文の『黒い裾』300円。河合隼雄『明恵、夢を生きる』(京都松柏社版)600円。こうの史代『街角花だより』300円。神田に比べて2割ほど安い気がする。特に店頭の安売り本は悪くない。夢中になって歩き回っていて、気がつくと6時を回っていた。

 馬場までバスで出て新宿へ。中央東口で田沼武能さんとYさんと待ち合わせる。30年以上の仲の二人と、遅い新年会を兼ねた田沼さんの近況を伺う会である。
今年82歳になる田沼さんは言うまでもなく日本写真界のドン、日本写真家協会会長を10年以上勤めている。昭和24年からプロとして活躍してきた。だが、そんなことを少しも感じさせない。10分ほど遅れてきた先生は15キロはあると思われる重そうなカメラバッグを担いでいた。2台カメラが入っているという。少し風邪気味だったが、顔色は悪くなく、とても80代には見えない。春には、黒柳徹子女史とともにハイチの子供たちを撮影に行く予定だと語っている。恐るべき82歳。新宿ステーションビル7階のてんぷら屋で食べながらあれこれ聞いた。

2月から、田沼さんの個展が全国3カ所で開かれる。「アトリエのアーチスト」というテーマで、これまで30年にわたって撮影してきた画家たちの肖像写真の展覧である。案内のハガキをいただいた。そこには現代美術の高名なアーチストの名前が並ぶ。平山郁夫、飯田善国、佐藤忠良、上村淳之、絹谷幸二、有元容子ら錚々たる73人の名前があった。2月17日がオープニングで、銀座のキャノンギャラリーから始まる。歓談は9時まで続いた。

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by yamato-y | 2011-01-27 08:49 | 賢者の面影 | Comments(0)

いかにも冬の明るい日の成城

いかにも冬の明るい日の成城

 ――12時45分に成城の駅を出た。碁盤の目になっている町の通りを規則正しく歩いて、大江宅に向かう。撮影スタッフは局からロケ車でやってくる。現地で合流することになっている。私が着いたのは予定より早かったらしくお宅の前に車はない。少し、時間待ちした。空は晴れ上がり、まぶしいほどの光がそこら中に満ちていた。日向にあれば思ったほど寒くはない。ただ風だけはうなりをあげて吹いていた。人通りの少ない成城の町に羨ましいほどの緑が風に揺れている。時折、小鳥が低空に素早く飛来する。

 午後1時15分、大江宅訪問。私にとって7、8年ぶりになるだろう。大江夫人がいつもの柔和な笑顔でむかえていただいた。懐かしさがこみあげる。部屋に入ると、光さんがソファに座って作曲をしていた。10年前とまったく変わらない。口数の少ない光さんだが、久しぶりの私の顔を見て、少し笑みをふくんだ表情で、「こんにちは」と言葉を発してくれた。どんな曲ですかと問うと、恥ずかしそうに譜面を私のほうに押しやって。「冬2」というタイトルがついていた。フラットが6つもある、変ホ短調のピアノ曲らしい。私は譜面がまったく読めないから、理解はここまで。
 やがて、渡邊アナを含む撮影クルー6人が到着。夕方6時までの長いロケ撮影が始まることになる。当初は、4時頃で終わるだろうと見通していたが、大江さんの話があまりに面白いので、つい予定が延伸することになったのだ。今回の撮影で驚いたのは、2階の大江さんの兵隊ベッドがある書斎でのインタビューである。本当のプライベートな場面での撮影となった。

 12月に『水死』を出版した大江さんは、現在、3月にシカゴ大学で行われるシンポジウムでの講演のための原稿作りに集中している。
大江さんの40年来の友人で、シカゴ大学元教授、テツオ・ナジタのための「日本研究講座」での講演である。ハワイ移民の子孫であるナジタは苦学してシカゴ大学で教授までなり先年定年退職した。その後、彼の名前をつけた講座が15年にわたって設けられ、今年でそれが閉じることになる。その最後の会の記念講演の講師に大江さんが選ばれたのだ。ナジタの研究は、江戸時代後期の大阪で発展した学問所「懐徳堂」。民間道徳と経済学の入り交じったような論文を、大江さんは懸命に読破してその講演に備えていた。いつも一生懸命の人である、大江さんは。

 大江家のあちこちの壁面を飾る絵画が気になる。私が出入りしていた頃からあったのは、奥様の父である伊丹万作の静物だけ。後は新しい作品が架かっていた。舟越桂の3人の若者の肖像、司修の光さんの肖像。そして、今回しっかり見た大きな油絵で、「森の中の大江健三郎」、作者はおそらく司修さんだ。深い森のなかで、ライオンや狼に囲まれて切り株を机にして執筆する20代の大江さんが描かれている。200号ぐらいの大きな絵だ。私はすっかり魅了された。
玄関を入ったすぐの壁には、大江さんの師である渡邊一夫のカラフルなレリーフがあった。

こういう撮影となると、一番大変なのは主婦である奥様だ。6人のために幾度もお茶やお菓子の用意をされたりした。5時間にわたる撮影にほっこりされたであろう。夕方6時、すっかり暮れた大江家の門前で、あらためてお礼を申し上げて、わがスタッフは辞去した。
最後に、私の持参した『水死』に大江さんの署名をいただいた。そのときに書き添えられた文言。
「われらは辛抱づよかった
 さうしてわれらも年をとった
 われらの後に何が残されたか
 問ふをやめよ今はまだ
 背後を顧みる時ではない
        三好達治」
 病から生還していささか弱気になっている私を励ましていただいた大江さんに、思わず落涙しそうになる。

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by yamato-y | 2010-02-08 00:36 | 賢者の面影 | Comments(0)

大いなる日に

オオエなる日に

 昨日は久しぶりに高揚した。午後1時から6時まで、大江健三郎さんのインタビューにじっくり付き合い、大江さんの声に耳を傾けた。聞き手の渡邊あゆみアナもよく勉強してきて、大江文学の核心を丁寧に(むしろ執つこいぐらいに)聞き出していった。この番組はきっとインタビューの労作(トラヴァーユ)になるにちがいない。
久しぶりに、大江さんの前に出て、緊張した。休憩の折りなどに言葉を交わした。75歳となった今も変わらずジョークをとばす大江さんに安堵した。それにしても、『水死』を発表して後期5部作をなしとげたという解放感だろうか、実に闊達な表情をしておられた。5時間のスタジオ作業に、70歳過ぎで耐えるというのはなかなかできるものでない。だが、大江さんの言動や表情は最後まで張りがあった。

 「100年インタビュー」の番組時間は90分だが、昨日の収録ぶんだけで180分ある。さらに、明日日曜日には成城の自宅でのインタビューが行われ、素材として追加される。おそらく、素材時間だけで300分になろう。これを90分にまで削るということになるのだが、内容が深いやりとりだけに割愛するのがこころ苦しい。担当の岸アナウンス部副部長も放送時間の延長を申請しようかどうか悩んでいた。その気持ちは分かる。

 インタビューの中身の詳細はオンエアーでごらんいただくとして、心に残った話を記録しておく。
 大江さんが音に対しても鋭敏であるということ。それも大江文学にとっては重要である。言葉のしらべに関して、大江さんがこだわっていることを痛感した。
渡邊さんが、執筆したあとの推敲では朗読をしてたしかめるのですかという問いに対して、大江さんは作家は声に出さなくても、内心で、音を立ち上げて読む習慣があるものですと答えた。つまり、大江さんのなかでは書かれた言葉の音の響き、調べがかなり重要で、エラボレーション(書き直し)にはその配慮がかなりあると推定された。オーデンやエリオットの詩の引用にしても、どの日本人が訳したかということにかなりこだわる。つまり、大江さんの感性に近い言葉遣いや音の響きをする訳詩者(例えば深瀬基寛や西脇順三郎)にこだわるのだ。たしかに、エリオットの「荒れ地」の詩をとっても、かなりたくさんの訳がある。なかで大江さんは深瀬の訳にこだわる。

言葉のしらべに敏感なのは、長兄の大江政太郎さんが歌人であったことともつながる。大江さんの一族にも音に対する鋭敏性があるのだ。
光さんの音楽性は奥様の伊丹一族から受け継いだものでしょうと、大江さんはよく謙遜するが、私は大江一族の血も大きいとみている。

 とはいえ、昨日の収録でこんなことがあった。
渡邊さんが、『水死』の一部を朗読するときに大江さんに原音をたしかめた。「谷間」を何と読めばいいでしょうか、タニアイ、タニマ?それに対して大江さんは、ずっとタニマと呼んできましたが、あるとき朗読をされる方がタニアイと呼ばれることがあって、ああそうかと思うようになりましたと言って、タニアイでもよいのではと支持された。そこで、番組中はずっとタニアイと渡邊さんは発音した。この件に関しては、(大江さんがゆるされたとしても)私はいささか異論を唱える。
 大江文学における「四国の谷間の村」という表現は、ぜったいにタニマであってほしい。仮に通説の読み方はタニアイであっても、大江さんの小説世界では響きからいってタニマこそふさわしいと思うのだ。昨日のタニアイを大江さんが支持したのは、大江さん流の優しさ、寛容であったとみる。だから、そこにあまえず、今後ともタニマと発音されることを私は望む。

 先日、「スタジオパーク」に出演したとき、画面の大江さんを見て、奥様は銀髪が硬くみえると感じたそうだ。そこでふわふわとなるシャンプーを買ってきてくれて、昨夜それで洗いましたと、メイクさんに冗談を言っていた。豊かな白髪が羨ましい。グレイのタートルに紺のブレザー(ランバン)、グレイのズボンと相変わらずお洒落だ。すべて奥様の見立てと謙遜されるが、それを着こなす大江さんの75歳と思えない身のこなしにつくづく病み上がりの私は羨ましく思った。

 20世紀の終わりの頃から書かれた作品は、大江文学後期5部作という。これらの作品の主人公は大江さんらしい小説家長江古義人が語り部となっているので、古義人ものと呼ぶのがふさわしいかもしれない。最新作『水死』はその古義人ものの締めくくりの作品となる。長編小説はこれが最後になるかもしれないと、大江さんは語っているが、私は、大江さんが新しい語り部を発想して、また新しい作品を書き続けられるだろうと予測する。それほど、大江さんのなかには小説に対する大いなる意欲があると見受けた。わが日本のノーベル賞作家は老いてますます意気盛んである。

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by yamato-y | 2010-02-06 11:41 | 賢者の面影 | Comments(0)

ラスト・ピクチャー

ラスト・ピクチャー

年長の友人イイダさんは毎月渋谷の理髪店に出て来る。横浜に住んでいるイイダさんは元の職場の近くにある理髪店でしか髪を切らない。今年73歳になるだろうか。お洒落だ。細身の体つきや穏やかな風貌と違って、イイダさんは筋金入りのジャーナリストだ。私たちの大先輩にあたる報道カメラマンである。番組を制作する私と畑は違うのだが居酒屋「たつみ」で顔なじみとなり、以来仲良くしてもらっている。

昨日、久しぶりに出てきたイイダさんと話をした。懐からイイダさんは手紙を取り出した。出版記念パーティの案内状だ。第40回大宅壮一ノンフィクション賞(日本文学振興会主催)に選ばれた「キャパになれなかったカメラマン−ベトナム戦争の語り部たち」(講談社)の作者平敷安常さん(71)のパーティのお知らせだ。平敷さんはベトナム戦争当時アメリカABCのスチールカメラマンだった。NHKの特派カメラマンだったイイダさんと友だちで、そのヨシミで招待されているのだ。

イイダさんはベトナム戦争従軍のエピソードをぽつりと話した。当時、サイゴンにはフリーのカメラマンが日本からたくさん来ていた。写真を撮って、UPIなど通信社にネガひとコマ25ドルで売っていた時代だ。命がけの商売だから、イイダさんの月収の3倍ぐらいの収入を無名カメラマンたちは得ていた。
そして、ベトナム戦争取材で命を落とした日本人カメラマンだけでも10人はいる。みんなイイダさんと顔なじみだった。今回、大宅賞を受賞した平敷さんとも共に死線を越えた仲だ。かなりヤバい地帯をイイダ、平敷は歩いているが、幸運にも命を長らえている。

仲間から二人のピュリツァー賞をうけた写真家が出た。一人は川面(かわも)の家族を撮った「安全への逃避」の沢田教一。もうひとりは酒井淑夫である。沢田は戦場に消えたが、酒井は生き延びて1999年に日本で亡くなっている。その酒井が嶋元啓三郎のラスト・ピクチャーを撮っているよ、とイイダさんは呟いた。「それは、どういうこと?」と私は尋ねた。
「嶋元の遺影を酒井が撮影したのさ。それが葬式写真となったの」イイダさんの口調がきつくなる。
ベトナム従軍撮影に入る時、カメラマンたちはお互いを撮影しあった。もしものときのために撮ったのだ。1971年2月のラオス行きのときも、そうやって嶋元と酒井はレンズを向け合って互いの肖像写真を撮った。翌日、嶋元の乗った米軍ヘリコプターが北ベトナム軍により撃墜され死亡した。酒井の撮った嶋元はラスト・ピクチャーとなった。

イイダさんも凄まじい体験を重ねているが、いっさいメモを残さなかった。スチールカメラマンと違って、放送局のムービーカメラマンは会社への報告やフィルムの管理に追われた。だから平敷安常のように克明な記録をもたない。だが、以前から私はイイダさんの体験をカタチにしたいと、何度もインタビューを試みているが、本人は照れくさいのかしゃべりたくないのか、いつも話題を変えてはぐらかされる。

これを書いていて、妙なことに気づいた。嶋元啓三郎は鹿児島県種子島の出身。平敷安常や石川文洋は沖縄出身。沢田や一ノ瀬泰造は東北の出身だったはずだ。なんだか、日本の周縁の出身者が戦場カメラマンには多い。

イイダさんはベトナム戦争の最後まで残り、サイゴン陥落の映像をスクープする。いくつも修羅場をくぐったイイダさんだが、バドワイザーの泡を楽しむ今のイイダさんからは想像がつかない。とにかく「キャパになれなかったカメラマン−ベトナム戦争の語り部たち」を読んでみよう。
 
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by yamato-y | 2009-06-11 08:37 | 賢者の面影 | Comments(1)

偽史和人伝

偽史和人伝

『1973年のピンボール』が枕の傍らにあって手にとり、やっぱ佐々木マキの表紙絵はいいなあと独りごちる。この人はつげ義春の奥さんだ。(と、私は勝手に思い込んでいた。たしか夫人の名前はマキで、絵を描く人だと噂で聞いていたから)

「ガロ」に佐々木マキが登場したときに、イラストのような漫画を描く人だと感じた。自立した女流の漫画家だと勝手に思い込んでいた。1968年の頃だ。あの頃「ガロ」は大学生に人気だった。後に鳥山明が出てきたとき佐々木マキと似た雰囲気の画風だなあと感じたこともある。つげ義春の当時の活躍の場も「ガロ」。だから、二人はそこで知り合ったのだろう。

でも、佐々木マキって、あの伝説と化したつげの貧困のなかにあっても、『1973年のピンボール』のような洒落たセンスの絵がよく描けるものだと感心していた。つげの文章や漫画を読むことにおいて、つげ一家の貧困は半端なものではないと感じていた。ほとんど仕事をしないつげと共に安アパートで慎ましく暮らしながら、佐々木マキはジェイズ・バーのような都会的雰囲気をよく描けるものだと、感心していた。(今となってはおめでたい感心だ。)

昨日、図書館でつげ義春コレクション『苦節十年記/旅籠の思い出』を借り出した。「自伝的エッセー」と題された項を読んで、密航、自殺未遂、万引きとつげのその悲惨な経歴に思わず涙ぐみそうになる。その章の最後に「妻のアルバイト」というのがあって、マキ夫人のことを記している。アルバイトと言うからには、村上春樹のカヴァー絵を描いているということでも記しているのだろうか。そうだとしたら、あの名作群『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『カンガルー日和』『パン屋再襲撃』『ダンス・ダンス・ダンス(上・下)』などを描いていたときのこぼれ話でも、つげは記しているのかなと期待する。(ノー天気な期待だ。)

しかし、あんなベストセラーの絵などを描いていれば相当なギャラが望めると思うが、それでも足らないぐらいつげ家のお台所は厳しいのか、それともとてつもなく贅沢な暮らしでもしているのだろうか・・・。
なんといったって、つげ義春といえば、あの『無能の人』『ゲンセンカン主人』『ねじ式』を描いた異能の人だ。並の漫画家とは違うはずだ。とてつもない生き方をしていても可笑しくはない。
それにしても、つげの妻と思しき人物は漫画にも登場してくる。私の好きな「チーコ」に出て来る無邪気な妻のモデルがマキさんだろうと、あたりを私はつけている。
ところで、「妻のアルバイト」とは、競輪場の車券売り場に勤めることだった。5時間で5千円と、割のいいバイトだとつげ義春は喜ぶ。(これぐらいの金額で喜ぶつげ一家とは、不思議な感受性の持ち主たちばかりだと、首をかしげる私)

『苦節十年記/旅籠の思い出』の巻末に、つげの年譜があって、1969年(32歳)2月、状況劇場の女優、藤原マキを知る、とある。ああ、そうかマキは唐十郎の劇団の女優だったのだ。肝っ玉の太い女性なのだろう。芝居もやるは絵も描けるは、たいした人物だと、私はまたまた感心感動する。(このあたりで、私の妄想はいっきに膨れ上がる。佐々木マキは赤テントの豊満で危険にして無邪気な女優で、つげと出会って役者をやめたものの、好きな絵を描いてくらしている。放浪するつげにくっついて東北や房総の小さな街を転々と旅する。ときどき、東京の家にもどってくると、それまでに溜まっていた絵の注文をこなす。その画はとてもスマートで、貧乏旅行の垢などひとつもない。その変わり身がマキの凄いところと、どんどん勝手に解釈していた。)

先の年譜の続き、1999年の項。胃がんのため妻真喜子死去とある。ああ、マキさんは死んだのだ。60歳にもなっていなかったから早かったなあ。道理で、最近、佐々木マキの新作は目にしない。(自分の管見を顧みず、都合良くマキの死を私は受け入れた。噴飯ものである。)

ここで、ウィキペディアで「佐々木マキ」を改めて引いてみた。
《1946年 神戸市に生まれる。京都市立美術大学中退。1966年 『ガロ』11月号『よくあるはなし』でデビュー。・・・》レレ! 佐々木マキは男だ。

では、つげ義春夫人のマキをネットで引いてみると――。藤原マキとなっている。《藤原マキは1941年の大阪生まれ。唐十郎の"状況劇場"での女優活動をしているうち、つげ義春先生と知り合って、結婚…》紛らわしいことに、この藤原マキも画集を出している。絵本画家を目指して「私の絵日記」を出版していたのだ。

早とちりもいいところだが、私はもう30年以上、ずっと佐々木マキはつげ義春夫人だと思い込み評価してきたのだ。

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by yamato-y | 2009-05-17 16:09 | 賢者の面影 | Comments(0)

秋彼岸

秋彼岸

日曜の夕暮れ、「秋彼岸」という小林勇の文章を酒を飲みながら読む。
小林の文章は日曜の夕方に読むにかぎる。それに相応しい滋味がある。この人のエッセーは10余年前に脳出血を体験して以来、私のこのみと合うようになった。鯨のベーコンをつまみにエビスの黒ビールを飲みながら、「小林勇文集」を読んでいる。

小林は岩波書店の編集者として出発し最後には社長となった人物で、現役の頃には幸田露伴や三木清とも親交のあった人だ。戦時中、敗戦直前に治安維持法違反の容疑で検挙され、終戦は横浜の警察署で迎えた、横浜事件の被害者でもある。そういう経歴、三木清との交流と聞くと左翼のようにみえるが、おそらく彼は保守主義者だったと思う。

小林勇が獄中にあったときに自分を戒めたことが3つある。早くかえりたいと思わない。自分を卑しくしない。健康に気をつける。どこにいても同じだという平常心を保ち続けたのだ。彼が釈放されたのは戦争が終わった8月28日のことだった。

この人が鎌倉に住んだこと、一男一女を得たこと、露伴に可愛がられたこと、などを私は真似したことが多い。大磯を選んだのはそのせいだ。一男一女は結果として同じとなった。この人は頑固親父でけっして子供に甘くなかったが、子煩悩であったことはエッセーからも読み取れる。露伴の晩年に彼はぴたりと寄り添う。『蝸牛庵訪問記』を読むと、露伴が「イサム、イサム」と可愛がったことが伝わってくる。私もノーベル賞の先生とそういう関係を築きたいと願ったことがあった。が、かの先生はそういうセンチメンタルをもっとも嫌う人であったので、これは実現できていない。

さて、秋彼岸は高見順のことを書いている。永井荷風が高見のことを軽蔑した文章を表したことがあって、小林はそれは誤解だと知っていた。そこで小林は高見にそれについて書かないかと原稿を依頼したところ、高見は「母が哀れで、母が生きているうちは書けない」といって断った。が、やがて高見は癌となり結局書かずじまいで終わったと、小林は書いている。

小林が岩波の社長の頃、安江良介は「世界」の編集者であった。美濃部都政に参加したため一旦岩波を辞めた経歴を安江はもつ。その後復帰するとき、小林は難色を示したらしい。
安江良介さんが岩波の社長になった頃、私は「シリーズ・授業」という番組に出演してもらったことがある。それを契機に私は安江さんと親しくなった。
その安江さんは終生小林勇のことを話題にするのを避けた。私が一度小林の遺族に会いたいと伝えたところ、そのうちに機会を作るよと言っていたが、やがて安江さん自身難病を患うこととなり、その機会を私は失してしまった。

話はとりとめもないものになったが、本日、家人が留守なので海へ泳ぎに行こうと思った。50歳を越えてから、私が泳ぎに行くことを家人はつとに嫌がるようになった。だから、留守で誰もいないうちに海水浴へ出かけようと思ったが、庭の草むしりをしている間に疲れて、浜へ出る気がなくなったのだ。

小林は60歳まで毎年、鎌倉の浜で10月まで泳いだと記している。そのデンに習おうと思いつつ、本日果たせず、代わりに彼のエッセーを読んだというわけだ。私は彼の文章が真率で好きだ、が、松岡正剛は下手糞と書いている。

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by yamato-y | 2007-09-09 21:19 | 賢者の面影 | Comments(1)

夕焼けと銭湯

夕焼けと銭湯

諫早と言う町がずっと気になっている。佐賀から長崎に向かう途中にあり、町の両脇に大村湾と有明海が迫っているため、諫早は「つなぎ」の町のようにみえる。だから地峡の町と言われる。本州の西端にある人口7万ほどの小さな町だが城下町であり、高名な文学者を幾人か輩出している。伊東静雄、野呂邦暢、林京子、近年では脚本家の市川森一らがいる。林は長崎原爆に被爆後長く諫早で少女時代を送っている。

野呂邦暢の『小さな町にて』というエッセーとも小説ともいえない作品を読んだ。彼が大学受験に失敗して京都や諫早、東京を彷徨する自伝的作品だ。そのなかで大森山王に住んだときのことが出てくる。彼は映画と古書店を巡り歩くことが好きだった。お気に入りだった山王書房という古書店の主人について、野呂は書いている。
その主人は、俳句と歌と古書が好きでさらに夕焼けと銭湯が好きだったと、野呂は懐かしそうに書いている。「夕焼けと銭湯が好き」という、この一節が気にいった。

今では高いビルが並んでいるが、昭和30年代には大森はまだ閑静な住宅街だった。坂の多いこの街では夕焼けがさぞ美しかったのだろう。家々には内風呂が少なく、たいていは銭湯へ通った。明るいうちに風呂に漬かることは最高の贅沢だった時分だ。

野呂は若くして亡くなるが、端正な文章は早くから知られていた。彼の世界にながくこだわっていた人を知っている。向田邦子だ。向田は最晩年に野呂の「落城記」をテレビドラマ化している。主演に岸本加代子を抜擢した。この撮影の感想を報告したのが、岸本が最後に見た向田の姿だったということを、私は岸本から聞いた。その折、向田がどれほど野呂邦暢の小説を愛していたかを岸本は話してくれた。

私の中に、伊東静雄―野呂邦暢―向田邦子という一つのラインがずっとある。

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by yamato-y | 2007-06-28 11:25 | 賢者の面影 | Comments(0)

シナリオの神様

橋本忍さん


慌しい日であった。「文楽」のこれからのポスプロのリソースの手配、ナレーターの選出、広報番組の打ち合わせなど目白押しであった。私の苦手なオフィスコンピュータによる業務の打ち込みもあった。そんなスケジュールの隙をねらって2時から4時まで、シナリオ作家橋本忍氏を訪ねた。

友人のU山氏がこの数ヶ月橋本さんにロングインタビューをしているのだ。そこに便乗した。

橋本忍といえば日本を代表するシナリオライターだ。「七人の侍」、「生きる」、「切腹」、「張り込み」、「砂の器」、「私は貝になりたい」、「日本沈没」、「八甲田山」とヒット作が並ぶ。自身、作家というよりシナリオの職人と称している。映画をヒットさせることだけを考えてシナリオを書いたのであって芸術作品を作ろうとしたわけではないと、氏はさらりと語る。

そもそもは、橋本さんは姫路で生まれまったく映画とは縁がなかった。中学を出て軍隊に入ったが結核に罹り療養することになる。そのとき隣のベッドにいた兵隊がシナリオを読んでいたことから興味を持ち、伊丹万作のもとに作品を送り、指導を受けることになる。その伊丹が死去したため、伊丹夫人より佐伯清監督を紹介された。

 そして昭和24年、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。その橋本脚本が佐伯監督を通して黒澤明に渡る。そして黒澤の助言により芥川の同じ短編小説『羅生門』も加えて完成。この脚本を基に翌1950年黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビュー。同作品はヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。橋本さんのデビューはなんと『羅生門』なのだ。

井の頭線、新代田を降りて環状7号線から少し住宅街に入ったところに冠木門の古びた屋敷がある。そこの書斎で橋本氏は待っていてくれた。今年90歳になる。髪は染めているとは思えず黒々としている。やや言葉が不自由だが眼光鋭く、頭脳明晰、記憶もしっかりしていた。

氏は持論としてシナリオの書き直しに応じたことはない。今回、初めて書き直しをしたと新しい台本を見せてくれた。「私は貝になりたい」だ。
これは、1958年にフランキー堺が主役を演じて評判をとったTBSのテレビドラマだ。なぜ、これを書き直そうと考えたのか尋ねた。

盟友の菊村到から、この台本はお前の中の作品の中で、A,B,Cと等級をつければCクラスだと批判されたことが橋本さんの耳朶に長く残っていた。さらに、黒澤明監督に言われた言葉が忘れられないと橋本氏はつぶやく。

「貝になりたい」がテレビで話題なり、映画化の話が出たことがある。適当な監督がいないので橋本さん自身がメガホンをとることにした。そのことを報告しに橋本さんは黒澤邸に出向いた。なんでも協力するよと黒澤が請け負ってくれたが、その後に言った黒澤の言葉が橋本さんには忘れられない。

黒澤明はその台本を手のひらに載せて(まるで出前の岡持を持つように)一言言った。「何かが足らないな」
橋本さんは当時はこの意味が分からなかった。近年になってようやく分かるようになった。
テレビドラマは映画に比べて密度が薄いのだ、テレビドラマを映画にしようとするならもっと書き込まなくてはならないということではないかと、橋本さんは黒澤の言葉の真意を今推測する。

橋本説。映画の創成期、フィルムのコマは1秒間に30コマほどだということは知られていた。
知っていながらあえて24コマにしたのは少ないカットにしてさらに観客の感動を奪いたいと映画創世記の人たちは考えたのだ。コマ数が少ないということは、視覚を緊張させる。しっかり見ていないと映像の意味事情が把握しにくくなる。だから観客は映画を見る限度は2時間10分がせいぜいだと、橋本説はする。

比べて、テレビは30コマ(フレームという)。これはなだらかに目に映る。それほど意気込んで見なくても観客は映像を理解できる。時にはながら視聴もできる。こういうテレビのドラマの映像と映画のそれとでは自ずと違ってくるのではないかと、橋本さんはわれわれを前に立て板に水を流すがごとく延べる。とても卆寿とは思えない。

このテレビと映画の差異を意識して、今回「私は貝になりたい」を自主的に橋本さんは直していたら、ある映画会社から声がかかり来年のいい時期に公開される運びとなったそうだ。

その橋本さんの映画人としての肖像は、「砂の器」にあると思う。そこに秘められたさまざまな模様を、U山君は6月10日から20日までのよき日に、カメラを置いてインタビューする。私も、なんとかこのプロジェクトに加わりたいと願ってはいる。

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by yamato-y | 2007-06-01 21:32 | 賢者の面影 | Comments(1)

おとうと

幸田文の世界

1960年製作の、市川崑監督の名作の一つといわれている映画「おとうと」を見た。見終って、巷間の噂通りの佳作だったと、“安堵”した。

この作品は元来幸田文の原作を水木洋子が脚色したものである。この脚本もすばらしいが原作がいい。「おとうと」は幸田文の半自伝的小説なのだ。

父幸田露伴がモデルと思われる大作家(森雅之)と、継母(田中絹代)、げん(岸恵子)そして弟の碧郎(川口浩)が主な登場人物である。

気の強いしっかり娘のげんは、文豪の父とリュウマチを病みキリスト教に救いを求める継母と、反抗ばかりしている弟と暮らしていた。継母との折り合いがよくないのか、父の気を引こうとするのか、弟は親を困らすようなことばかりしでかしている。姉のげんが病気がちの母に代わって、その尻拭いをしている。つまり、弟の反抗を一人で全身で受け止めている。
そのおとうとが結核に罹ってしまう。当時、結核は死の病であった。姉は一人転地療養にも付き添って必死の看病をする。が、その甲斐むなしく弟はついに死ぬ。今わの際でそれまでバラバラだった家族が和解するのだ。

主人公げんを演じる岸恵子が実に魅力的だ。戦後民主主義の申し子のような軽やかな女性の演技を見せてくれる。この人が、なぜ今、都知事の要請で特攻映画のヒロインなどを演じるのだろうか、とつい愚痴を言いたくなるほど、この「おとうと」での演技は素晴らしい。ただ、実年齢が主人公の年とかなりずれていること、化粧が女盛りになっていることが、憾みではあるが――。

森雅之、田中絹代の演技はいぶし銀だ。この配役が映画の成否を握っていたと見た。弟の川口は演技が下手だが存在がいい。16年後リメイクされたとき、この役を郷ひろみが勤めるが格段に川口のほうがいい。

この映画の撮影は巨匠、宮川一夫が担当していて、「銀残し」という伝説的な色彩処理の技術を見せてくれている。

この休みに、幸田文原作の映画を二本見るつもりでいる。明日は「流れる」だ。この映画の監督は成瀬巳喜男だ。両方見たところで、このブログをしっかり書こう。



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by yamato-y | 2007-05-04 01:53 | 賢者の面影 | Comments(0)

向田さんの展覧会

向田邦子の果敢なる生涯

来る4月24日から5月末日まで、世田谷文学館で向田邦子の展覧会が開かれる。
題して、「向田邦子 果敢なる生涯」である。彼女のエッセー「寺内貫太郎の母」の一節を引いている。
《美しくなくてもいい、最後まであきらめず、勇猛果敢に生きてやろう》

彼女の51年の生涯は激しいものであった。20代、シナリオ修業時代。試行錯誤を繰り返していた。30代、秘めた恋をした時代。苦しい結末となった。そして40代、乳がんが発覚しそれと戦いつづけた。やがて、あの飛行機事故へと人生はまっすぐ伸びてゆく。

ある意味、苦難と戦い続けた生涯を「果敢なる」と、世田谷文学館の学芸員は読み取ったのだ。この学芸員の方から私は半年ほどまえ相談を受けた。私が彼女の恋を初めて世に知らしめたということで、意見が聞きたいということだったのだ。

学芸員とは、昨年夏同文学館で開かれたウルトラマン展で大伴のことでお世話になっていた。その縁もあって、彼女は私に取材に来たのだ。そういうリサーチの集大成が今度この展覧会で提示されるのだ。

まもなく、その展示の内覧会が開かれる。本日、私にその招待が届いた。久しぶりに向田文学に触れてみようかなと思う。

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by yamato-y | 2007-04-12 17:50 | 賢者の面影 | Comments(0)


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