定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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カテゴリ:30年の自画像( 32 )

ジャンルの青春

ジャンルの青春

 新幹線のホームに立っていた時、不意に歌が唇からこぼれた。
 ♪ ぼくは特急の機関手で 
  可愛いあの娘は駅ごとに

 誰が歌ったかも知らない、50年代の流行歌。最後まで覚えているだろうかと半信半疑で歌い継いでみた。
 ♬ いるけど3分停車では
  キスする暇さえ ありません
  東京、京都、大阪 う〜う〜ぽぽ

 全部歌えた。新幹線がまだ走っていない時代、東海道線の特急はつばめだった頃だ。作詞は三木鶏郎あたりだったのじゃないかな。都会的な匂いのする流行歌だった。当時、私は幼稚園か小学1年生の頃だ。意味も分からないまま、此の歌や「ケ・セラ・セラ」とかを歌っていた。
 この時代に藤子不二雄たちはトキワ荘にやってきたと、川本三郎が書いている。市川準の映画「トキワ荘の青春」を主題とするエッセーでだ。この映画に登場する若い漫画家たちの貧しくも豊かな青春は、ジャンルの若さに由来すると川本は喝破する。
 《映画もテレビもそうだが、そのジャンル自体の青春期に自分の青春が重なった世代は幸福だ。自分の努力でこれから好きな世界がどんどん良くなっていく予感がある。未完、形成途上の良さである。》
 この言葉はまさに私自身も実感するところだ。私がテレビの仕事に就いたのが1970年、昭和45年。テレビの青春の尻尾の時代だ。テレビは終日放送でなくロケにはビデオカメラでなくフィルムカメラを使い、ラジオがまだ力をもっていた時代だ。
 その直後に「浅間山荘事件」で国民の大半がテレビに齧りつくという出来事から、テレビは「王様」になっていく。その流れのなかで、私は学校放送という地味なセクションで、テレビの手法というものを少しずつ学んでいった。最初の海外取材が1980年だから、10年間スタジオで音楽番組を作っていた。鳥塚しげきや堀江美都子たちとわいわいやっていた。収録のある火曜日はいつも午前サマだった。本番が終わると必ず番屋で焼酎のお湯割りを飲んで、六本木まで遠出した。金がないから俳優座の裏のスナックでウィスキーをちびちび舐めながら、番組の段取りや構成についてワイワイ議論していた。なんだか分からないがお祭り騒ぎだった。
 今になって気がつくのは、私個人の青春というより、テレビが青春だったのだということだ。たしかに幸せだった。

 今話題になっている朝ドラ「ゲゲゲの女房」も、貸本漫画から少年雑誌ブームの頃という「青春」が背景にあるから見ていて気持ちいいのだろう。

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by yamato-y | 2010-07-28 08:44 | 30年の自画像 | Comments(1)

春の雨、静かに静かに

春の雨、静かに静かに

週末はどうやら雨ばかりとなるらしい。
大磯紅葉山の庵でぼんやり夜の雨を眺めている。静かで、雨が地面に落ちる音だけしかない。机の上に小皿を取り出し、線香を立てる。それに火をつけてうっすらと香りを楽しむ。

書棚に黒い革の手帳を見つけた。フィレンツェのcellerini製と刻まれて高そうなシステム手帳だ。誰かからプレゼントされたはずだが、贈り主のことが思い出せない。手帳には1995年の6月のこと、つまり私が脳内出血を発症したときのことが私の字で書かれてある。それ以外の記述はないから、あの病になる前にこの手帳を私は取得して、闘病の記録だけをこの手帳につけたのだと思う。

その記述を読んでいるうちに神妙な気分になる。

6月19日、深夜に後頭部痛にて、平塚市民病院の緊急外来に駆け込む。数分待たされて、医師の診察を受ける。その間、激しい嘔吐感にさいなまれる。血圧は269まで跳ね上がっていて、医師は冷たくまさかの場合もありますと私と家人に通達する。そう言い放ったものの、その医師はたまたま脳外科の専門医で、その夜は当直でいたこともあって処置が早かった。今振り返ると、その夜彼がもしいなかったら私の運命はどうなっていたか分らない。CTスキャンされて、後頭部に出血が見られたため、即入院となる。

その後、保存的治療を施されて徐々に回復してゆく。6月20日から7月19日まで入院となる。わずか一ヶ月だが私には半年ほど入院していたような気がしてならない。
あの年の夏は暑かった。冷房の効いた病室でも、じっと寝ていても汗ばむほどだった。

退院となった夜は嬉しかった。帰りにドライブインに寄ってチャンポンを食べた。こんなに美味いものがあるとは思わなかった。
病院を出てからは外来通院となり、3日ごとに脳外科の待合室に坐ることになる。在宅でのリハビリがおよそ2ヶ月続く。

会社に出たのは9月の初頭、いわし雲が浮かぶ日だった。それはしっかり覚えている。
黒い革の手帳の記述から以上のことを少しずつ思い出した。最近になって気付いてきたが、あの時の私は変だった。あの年のことの記憶は断片になったままでうまくつながっていない。だから、当時の記録が出てくれば、それから類推して、一本の線にしようと今頃になって考えている。

線香が燃え尽きた。ふと、パソコンから顔をあげると、冷たい夜の雨が窓ガラスをたたいていた。静かで明るいのが春の雨の特徴だと秋桜子は記して、原石鼎の句を挙げている。
 春の雨音なくなりてふりにけり

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by yamato-y | 2008-05-10 22:02 | 30年の自画像 | Comments(0)

乗組員

乗組員

20年前、私はシカゴで原爆のときに発生した黒い雨について聞くために、長崎原爆を投下したB29のパイロットに会ったことがある。
レイモンド・ギャラガ―。彼は広島爆撃にも参加している。イタリア系の話し好きの気のよさそうな親父だった。彼は、爆撃に際しては細心の注意を払って晴れた日を選んで出撃したと証言した。その後で雨が降るなどとは微塵も考えていない。真夏の暑い日にまさか雨が降るとは予想をしていなかった。

 ところで、この会見で聞いた話のことでずっと気になっていることがある。それは、もし原爆の投下が不可となった場合、帰りの飛行で海に爆弾を投下するよう指示されていたということだ。というのは爆撃はレーダーを使わず必ず目視投下することが条件だった。有視界爆撃が出来ないのなら、任務を中止して帰還すべし、その帰路に爆弾を海に捨ててこいというのが軍上層部の命令だった。だが、ギャラガ―が語った言葉は意外だった。

「テニアンを出発してまず下関へ一路向い、次に原爆投下目標として我々は小倉に向った。小倉は目標地点が雲に覆われていた。3回、投下を試みたが、目標地点に小さな雲がかかっていてあきらめることになった。」

アメリカの目標選定委員会は、攻撃目標に広島、小倉、新潟、長崎の4つの都市を候補に挙げていて、広島の次は小倉をねらっていた。ところが前日の空襲で小倉には燃え残りの煙がたなびき、雲がかかっていたので、爆撃機は小倉を断念し、次の候補都市長崎へ向う。その機内で話されたことをギャラガ―は打ち明けた。

「長崎に向ったとき、機長のチャールズ・スィーニーは爆撃責任者のアシュフォードをコックピットに呼んで当面の重要な問題について協議した。それは、つまりこういうことだった。見ながら爆撃する目視投下が無理ならばレーダー投下しかない。少なくとも沖縄の基地まで持って帰るには、爆弾が重過ぎて燃料が持ちこたえられない。」
機長と爆撃手は意見が分かれた。
「アシュフォードは『私は、本部から目視投下を厳命されている』と主張した。するとスィーニー機長はにやっと笑ってこういった。『一応15分間待つけれど、もし長崎に投下しないなら、海に落すしかないぞ。だって沖縄まで持って帰れる状態じゃないのだから』」
作戦終了後、B29は最寄の沖縄に帰還する予定だったのだが、重量が重いと航続距離が短くなることを機長は暗示したのだ。

5分後、爆撃機は長崎上空にやってきた。そこも厚い雲に覆われていた。そのとき、アシュフォード爆撃手が決意したと、レイモンド・ギャラガ―は証言する。

「『私がすべての責任を負おう。もし目視投下ができないならば、レーダーで爆弾を投下する方法を取る』緊張した面持ちでアシュフォードは言った。私は、ではレーダー爆撃でやるのだなと推測した。原爆がセットされ、B29のハッチが開いた。レーダーによって原爆を投下しようとしていたその時、爆撃手のビーハンが雲の裂け目をみつけたのだ。ただちに機はビーハンの支配下に入った。機の高度や方向などすべて、ビーハンのコントロールのもとに置かれ、照準が合わされた。そして、ビーハンは原爆をB29から放り出したのだ。」

 最高責任者のスパーツ戦略空軍司令官は「有視界爆撃」を絶対条件にしていたが、現場は違っていた。そして命令に反してレーダーで投下しようとしていた。それは帰りの負担を軽くするためになら、目視でなくてもやっておこうという、現場判断だったのだ。おそらくB29の乗組員たちは原子爆弾というものの途轍もない破壊力、非人間性などということは分っていなかったのだろう。
だが、その時、「不幸にも」長崎兵器製作所の建物が雲の切れ間から見え、レーダーでなく目視による投下が実行されることになったのだ。

 現在のギャラガ―自身は、その行為をどう思っているのか聞きたいと私は思った。
あの原子爆弾で長崎だけでも10数万の人が死傷したのだが、あなたはその事実をどう思うかと、私は質問した。それには、彼は直接答えず、彼の私製の封筒を私に見せた。その封筒には原爆の写真と一つの標語が記されてあった。「原爆が戦争を終結させた」

 彼がカトリック信者だと知って、私はさらに質問した。「ナガサキは日本でも有数のカトリックの信者の多い街だというのは、どう思うか」彼は、幾分遠慮した口調でこう言った。
「原爆の投下地点は、作戦会議終了後乗員全員で検討して決めた。我々の意見では(長崎の)谷間の奥で一致した。そこにはミツビシ工場があって、不運なことに住宅街もあったのだね」


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by yamato-y | 2008-04-12 19:44 | 30年の自画像 | Comments(0)

こんな日が来るなんて

こんな日が来るなんて


受験シーズンの真っ盛りだ。我が家にも大学受験をするような子供はいなくなった。むろん、私などはあれを経験してから42年も経っている。
今で云う共通一次試験のようなものだが、かつては、国立一期校の受験日は3月3日から5日まであって、金沢は雪が降るというジンクスがあったものだ。
おそらく、今のこの時期は私立の試験が相次いでいるはずだ。

受験なんて早く終わってほしいと心底願ったものだ。特に数学と生物が苦手で、いつも参考書を手元から離さなかった。
なんでこんな苦労をしなくてはならないのか恨んだものだ。
これが終われば、楽しい学生生活が待っている、親の束縛から逃れられると期待だけが、支えであった。大学に入ったらギターを買いたいと願っていた。加山雄三の「若大将シリーズ」が人気を集めていて、「君といつまでも」が流行っていた。ヤマハのフォークギター1万6千円が高嶺の花だった。

受験会場へ行くと、ライバルがおおぜいいた。なにせ、私たち団塊の世代は半端じゃないほどの人数だったから。
外は雪だったが、会場は熱気でむんむんしていた。テスト用紙が配られるのを見ながらいつか受験と関係なく人生が送ることができたらいいなと、ぼんやり考えたことを思い出す。

今夢見たその日のなかにいる。
今となっては、その頃に帰りたい。あんなに懸命に勉強をして未来に向かって這い上がっていこうとする意志だけでがむしゃらに走っていた時代に帰りたいと願っているのだ。
あのとき、私の前にはなんと大きな可能性が広がっていたことか。


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by yamato-y | 2008-01-28 09:10 | 30年の自画像 | Comments(0)

Congratulations!

Congratulations!

久しぶりに思い出したことがある。
昨年、制作した「闘う三味線」を今国際コンクールに応募させようと作業しているのだが、その作業をやっているうちに、ずっと失念というか無意識に潜り込んでいたことが、姿を現したのだ。

国際エミー賞のことだ。
1995年の11月、私の「響きあう父と子~大江健三郎と息子光の30年~」が、ニューヨークのヒルトンホテルでエミー賞のグランプリを獲得した。私はその会場にいて、グランプリのトロフィーをもらった。呼び出されて舞台に上がるとき足が地に付かなかったことを覚えている。拙い英語で受賞のスピーチもした。そのときの緊張感も体にある。だが、それ以外のことはほとんど覚えていない、すべて霧の彼方になっていた。

その年、1995年の6月に私は脳内出血で倒れた。入院、在宅の治療が3ヶ月続いた。右半身不随という状態がしばらく続き、そのわが身に打ちのめされていた。アタマの中は霞がかかったようでぼんやりしていた。
秋風が吹き始めた頃に、恐る恐る出社した。

そろそろと出社する日や鰯雲

そのとき作った句だ。
まだ体調が完全ともいえない10月に、ひょんな話が起きた。君の作品が外国のコンクールにエントリーされているが、出席できるかという打診を受けた。それがどういう価値があるかもしっかり認識できないものの、外国出張できるほど回復したと思いたかった。主治医は健康の心配より心のリハビリになるでしょうと、前向きに考えてくれた。OKが出た。

そして、コンクールに臨むことになるのだが、受賞した実感はその式場の中だけのことで、その前後はほとんど記憶していない。まだ本調子にはなっていなかったのだ。すっかり当時のことは忘れていた。

 今朝、英会話のDVDを聞いていて、妙な感覚が襲って来た。音のデジャブー(既視感)とでもいうのだろうか。
At airport 税関での会話の場面だ。
「May I see your passport ?」と私もニューヨークの空港出発前の税関で聞かれた。
そして、その後、私が手にしていたトロフィーを見て、係官はこう言った。
それはエミー賞のだろう。おめでとう。

おめでとう(Congratulations!)と黒人の係官が言ってくれたことを、ずっと忘れていたが、今朝、英会話DVDを聞きながら、まざまざと思い出した。


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by yamato-y | 2008-01-09 17:29 | 30年の自画像 | Comments(0)

クロイスター

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クロイスター
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あれはいつごろだったろうか。ニューヨークで大事な打ち合わせがあったとき、ちょうど週末にかかったので休日をやり過ごすことになった。冬の初め、ちょうど今頃だったろう。ニューヨークは冷え込んでいて私はピーコートを着ていた。ロックフェラーセンターのアイススケートリンクもオープンしていたから12月だっただろうか。

コーディネーター兼通訳の女性に、日程がオフになったのなら出来ればクロイスターに行ってみたいのだがと頼んだ。ニューヨークに10年住んでいる人だったが、郊外にあるメトロポリタン美術館の分館のクロイスターのことは知らなかった。私も場所は分からず調べてもらった。

そこはニューヨークマンハッタンの北端、インウッド。トライオンパークまで行かなければならない、そこまで行くのはバスか地下鉄だが途中かなり治安の悪い区域を通らなくてはいけませんよと、通訳は地図を見て躊躇しながら答えてくれた。クロイスターとは回廊とか修道院という意味がある。

『謎の十字架』というメトロポリタンの学芸員が書いためっぽう面白い小説を読んで、私はどうしてもそこへ行きたかったので、半ば強引に計画を実行した。

バスで1時間半ほど離れた、ハドソン川を望む高台に広大な中世の修道院があった。ヨーロッパからわざわざ移築してきたものだ。この美術館の基金はすべてロックフェラー家から拠出されたものだと案内書には書いてある。院内はまるで中世のヨーロッパだった。寒い日だったからか、見学者はほとんどなく、寂れた庭園がますます赴きを深くしていた。

ここには有名なタピストリ(つづれ織り)が幾枚もあり、なかでもユニコーンのそれは美しさと豪奢さがすばらしく、しばらく時間を忘れて見入った。

修道院の屋上に上がると、ハドソン川を隔ててニュージャージー州の河岸段丘が一望できる。そこに大きな邸宅がある。ロックフェラー家だという。魂消た。アメリカの大金持ちというのは想像を絶する。このクロイスターを寄付したといっても、自分の家から見下ろすところに置いたという感じだったのだ。実際には、このクロイスターを栄えさせるために対岸の場所まで買い取ってロケーションをよくしたという。

後年、映画「薔薇の名前」を見たとき、舞台となった修道院に懐かしさを感じたのはクロイスターを思ったからだろう。今朝、部屋にある本棚の脇にクロイスターの冊子を見つけて、あの寒々とした庭園を思い出した。

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by yamato-y | 2007-11-04 11:40 | 30年の自画像 | Comments(0)

原爆の謎

原爆の謎

広島平和公園、朝8時の日差しは強い。13年前に、私はあの慰霊碑の前に立っていた。平和祈念式典のテレビ中継を手伝っていたのだ。まだヒバクシャの平均年齢は60代だったと記憶する。今年は74歳になっていた。被爆当時12歳である。よく若くて傷つきやすい細胞の身でありながら60年以上も生き延びてきたものだと感心する、というより感動する。そのお顔の一つ一つをテレビ中継を通して見た。

市長がヒバクシャ援護のさらなる充実を平和宣言で希望していた。爆心地の死の同心円のなかにあった人だけでなく黒い雨降雨区域の人、入市して被爆した人にまで手厚い援護をしてほしいと訴えたのだ。

広島と長崎に原爆が投下されてから何百回となく地上の核実験が行われている。だが、黒い雨が降ったのは広島と長崎以外にない。なぜか、それは都市に落とされた核爆弾だからだ。他の核実験はネバダの砂漠かセミパラチンスクの荒野かビキニ、クリスマスの海域だった。人口がほとんどない、したがって人家のない「ノーマンズランド」だった。そこでは核が爆発しても火災は起きない。さらに日本の夏のような湿度がない。だから、黒い雨は降らないのだ。

広島は中心部に投下されたため、爆発直後から火災となった。市の全域にわたって長時間燃えた。焼尽の細かい煤が空中に飛び散り、それに水分が付着して雨となって、町に再び注いだ。風下にあたる己斐や中国山地にまで降った。長崎は市の半分が破壊されて火災となった。が、火災の規模は広島より小さい。黒い雨は少量だけ風下の西山に降り注いだ。

この雨の正体を求めて番組を制作したことがある。私が30代のときだ。そのとき、広島己斐の民家の土蔵に黒い雨が残っていた。それを採取して日本、アメリカの研究所に持ち込んで成分分析をしてもらった。被爆から40年近く経っていたにもかかわらず、その雨の痕跡から放射能が検出された。さらに不可解な鉄分が発見されている。あらためて原子爆弾の底知れない威力を知った。

井伏鱒二の「黒い雨」よれば、8月6日昼過ぎ万年筆のような太い黒い雨が降ったとある。

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by yamato-y | 2007-08-06 15:59 | 30年の自画像 | Comments(0)

VANジャケット

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VANジャケット


「平凡パンチ」が創刊されたのは1964年だ。私は高校1年生だった。大橋歩の黒い顔の若者の表紙にはショックを受けた。カッコイイと思った。

その数年前から週刊「平凡」で、スタアのお洒落チェックを巻末でやっていた。スタアのワードローブを見せて、石津謙介が批評するのだ。中学2年の頃からそのコーナーを気にするようになった。ここでいつも石津が強調するのは、TPOだった。服装を決定するのはT=タイム、時、P=プレイス、場所、O=オケージョン、場合だというのだ。いつどこで何を着るということを、氏は力説したのだ。

VANが流行した最初は60年だ。安保の真っ只中で、アイビースーツが大流行したのだ。田舎の高校生もその影響を受けてゆく。やがてアイビールックのバイブル「メンズクラブ」が登場する、63年のことだ。この出版社が65年に「Take IVY」と称するアイビー特集号を発行するとすぐに入手した。

66年に私は大学に入学する。金沢では竪町に「ケンハウス」というアイビーショップがあった。そこで、アルバイトしたお金でときどきスェーターや靴下を買うのが最高の贅沢だった。スーツやダッフルコートなどは高くてとても手がでなかった。

70年に就職。初任給は5万円だった。その年の暮れ、三島由紀夫が自害するというショッキングなことはあったものの、冬のボーナスで私はVANのダッフルコートを買ったことのほうが大きな出来事であった。これは今も持っている。黒のドスキンで重いコートだ。この重さが本物らしくてよかった。たしか2万円ほどした。買ったのは大阪梅田、阪神デパート傍のテイメンショップだ。

とにかくVANが好きだった。ある頃からVANはテーマをシーズン毎に決めてキャンペーンを始めた。大きなポスターにそのコピーが乱舞していた。その一つで、私が忘れられないのが「グローバルアイ」だ。その頃、グローバルという単語がピンと来なかった。世界の、と言う場合はだいたいユニバーサルを使っていたのに、VANはグローバルをもってきたのだ。辞書で調べて意味を知った私はこの言葉こそ新しいと思って、その後盛んに使うことになる。まさか昨今のヤナ意味のグローバルに成り果てるとは思いもよらなかった。

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by yamato-y | 2006-12-19 21:45 | 30年の自画像 | Comments(2)

神戸 懐かしのジャズ喫茶

神戸 懐かしのジャズ喫茶


1971年から74年まで神戸に住んだことがある。最初は阪神の住吉で、次に芦屋のうちでの浜に住んだ。その2年間は、休日はいつも一人だった。理由あって誰とも会いたくなかった。
日曜日の午後はいつも三宮に出かけた。三宮センター街の2軒の古書店をはしごして、それから元町へ出かけた。サンセット通りとトアロードとの角の地下1階にあった「さりげなく」というジャズ喫茶へよく行ったものだ。当時の神戸のジャズ喫茶事情としては、「にいにい」・「ピサ」・「さりげなく」・「トリオ」の4軒が代表格であった。

「さりげなく」の階段を降りてゆくと、熱いジャズが流れていた。当時、ジョン・コルトレーンがはやっていた。ビル・エバンスも人気があった。まるで修行僧のような顔つきで、客たちは聴いていた。話をする客がいると、静かにと注意されることもあった。見方によれば窮屈かもしれないが、誰とも口をききたくない私には都合よかった。でも、分かりやすいチック・コリアやウェイン・ショーターの「ウェザーリポート」などが本当は好きだった。

西宮北口にアウト・プットという店は、当時としては最高級のオーディオ装置を備えていると「スィングジャーナル」で知って、数回通うこともあった。ジャズをポカーンと聴いているのがとても心地よかった。
神戸のこれらの店はあの震災の後どうなったか知らない。たぶんなくなったのだろう。私自身、モダンジャズはこの20年ジャズ喫茶で聴いたことがないから、消息も知らない。

 勤め先の大阪では難波と梅田にあったバンビへ行ったものだ。ここでは話をする人もいた。気楽な店だった。

 京都にはしあんくれーるというジャズ喫茶があった。70年代の終わりに「二十歳の原点」というベストセラーが出た。学生運動で倒れた、立命館大学の高野悦子さんの手記だ。
私より1つ下の世代に人気があった。弟が一生懸命読んでいたので、私も拾い読みしたことがある。彼女がよく通ったのが、立命館に近いところにあった、「しあんくれーる」であった。今はない。

村上春樹は神戸のジャズ喫茶で神戸高校時代過ごしたと聞く。彼が大学を終えた後営んだというジャズバーに行ってみたかったな。きっと、神戸の匂いがしたに違いない。

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by yamato-y | 2006-11-04 00:44 | 30年の自画像 | Comments(6)

断念した海水浴

断念した海水浴

本日は休みをとった。家で、大伴昌司シンポの準備をする。
朝から暑かったので、泳ごうと思って午後3時過ぎ大磯こゆるぎの浜へ行った。

海は荒れていた。台風が接近しているので波が高い。
泳ぐつもりで海パンのいでたちだった。セーフガードの若者が危ないから水際から離れてくださいと丁重に規制する。先週、50代の男性が波にさらわれて亡くなったので、厳重な警戒をしているのだ。

だが、沖にはサーファーがボードにつかまってドリフティングしている。あれはどうなのですかと訊ねると、彼らは自己責任で泳いでいるのですという答えだった。

実は、腹にかゆみがあったので塩水に漬けたいと思って海まで来た。このまま帰るのもシャクなので、腹ばいになって海水を浴びた。すっかり海パンは濡れた。

20分ほどで浜辺を離れ、山へもどった。
もみじ山、ツヴァイクの道を汗をかきながら登った。
途中、カタツムリや蝉の死骸が道に転がっている。そこへオサムシや蟻がたかっている。
夏の森では命の交換がせっせと行われていた。

三好達治の詩を思い出した。
 土
  蟻が
  蝶の羽をひいて行く
  ああ
  ヨットのようだ

この詩はなぜ「土」という題が付いたのかな。

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by yamato-y | 2006-08-16 16:57 | 30年の自画像 | Comments(0)


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