定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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カテゴリ:ふるさとへ( 65 )

ビィの副級長

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ビィの副級長

中学校の同窓会の2次会。カラオケハウスに行ったとき、座席が男女でくっきり分かれた。今の時代、男だ女だと区別することがなくなっているのに、未だそういう現象が起こるのはふるさとの町が旧弊なのか、団塊の世代自身が古い意識を引きずって固陋なのか。いずれにしても映画やドラマの同窓会では男女仲良く昔話にふけるのを見ているから、やや落胆した。現実との開きを感じた。
敦賀では女の子をビンチョとかビィと呼び、男の子をボンチと呼びならわしてきた。ビンチョ、ビィの言葉には女のくせにという軽い蔑すみが混じっている。

Nさんは幼稚園以来の友達で、幼い頃から利発にして発言力があったから、クラスの中心にいつもいた。たいていクラスの正委員である級長は男子が勤めるので、Nさんは副級長になったり生徒会の役員を担ったりしてきた。ワルイ男子にもおかまいなく注意を与える、しっかり者の女性だ。

英語が得意だったから、青山学院大学に進学したと聞いたときはまぶしかった。花の東京のど真ン中で活躍するのだろうと少し羨ましかった。
予想通り日本航空に就職し、国際線のフライト・アテンダントとして世界を駆け巡るようになった。一方、私らの世代らしく反権力の意識が強く、会社の合理化には断固戦ってきたようだ。(それにしても、あの日航はどうなっているのだろう。最近、現役の人から手紙を貰ったが、現場の荒廃は相当なもののようだ)
数年前にNさんはリタイアして、現在都内で主婦をやっている。私が1月に入院したときも見舞いに来てくれたが、生憎私は外出していた。

そのNさんが同窓会でM君と再会して大喜びをしている。ブリキ屋の息子M君はワルで、いつも副級長のNさんを悩ましていた。M君はワルといっても非行などとはまったく縁がなく、男気のある熱血漢だったから、単に反抗していただけだと思うが。
M君は高校を卒業するとすぐ船乗りになってアフリカへ行った。今回、話を聞いたのだが、世界一周がしたい、ズール戦争の跡を見たいとそういう職業を選んだとか。今は故郷にもどって板金の仕事に就いている。すっかりスリムになり髪も後退して気のいいオジサンになっている。

気の強いと思われた副級長のビィは“不良”のM君のことが内心怖かったらしい。それでもリーダーとしてクラスをまとめなくてはという責任感から、率先して注意を与えていた。それをうざいと感じたM君は楯突いていたのだ。だから今回「更正」して立派になったM君と会って、副級長は感激したのだ。
2人の生き方を見て思ったのは、私らの世代は男であれ女であれ田舎の町を飛び出して世界に行きたいと願ったことだ。私たちというのは、幼少期にアメリカのテレビ映画を見て豊かさに憧れ、西欧の重厚な文化に魅了された。いま、ここ、にないものを知りたい求めたいと、意識は世界に向かっていた。現在、大学で私が触れる学生たちはほとんどそういう関心をもたない。海外旅行をするより家でネットをやっているほうが好きだという若者が実に多い。

 私から見れば、Nさんは上野千鶴子のような存在だ。幼い頃から活発に行動し、社会にも積極的に働きかけをやってきた。戦後第3世代の女性として、女性の地位向上に貢献してきた。男女雇用均等法が制定されるのは一つ下の世代だから、その礎を築いてきた世代だといっても過言なかろう。先駆の存在として苦労もたくさんあったかもしれない。が、そんな素振りも見せずに、堂々と老後に向かっていくNさんに副級長の健気さを見る。

2次会のカラオケハウスを早めに抜け出ると、美しい夕焼けが広がっていた。あかねが山入端に射し、高い空には古代青が流れていた。

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by yamato-y | 2010-08-10 11:16 | ふるさとへ | Comments(0)

驟雨

驟雨(はしりあめ)

明け方に一雨来た。台所の窓を雨がどんどん叩くので目が覚めた。
ここはどこだと一瞬見失った。暗がりに目を凝らすと仏壇が黒々と光っていたので、実家に帰ってきていることを思い出す。
直前まで見ていた夢は、幼かった頃のものだ。弟たちはまだ学校にも上がっていない時代だから、きっと私は小学生で、夏休みの話だろう。朝のラジオ体操に出かけるときのことであったような気がする。出席カード(判を押してもらう例のやつだ)がないと言って大騒ぎしたあと見つかり、朝風のなかを走って行った日を夢見ていた。
「ヨシアキ、ヨシアキ」と母の呼ぶ声がする。顔に蚊帳が張り付いていて剥がそうとしている。眠くてたまらない。のろのろと起き上がって流し場に行き、冷たい水で顔を洗う。窓の外には青い稲穂の波。庭のニセアカシアは白い花をちらほらつけている。遠くの空には朝から大きな入道雲がわいている。

昨日の同窓会で聞いた中学生の私の印象は、漫画を描いてばかりいたということだった。ノートの裏にちょこちょこと描いて、友達に配っていたという。たしかに漫画が好きだった。というより当時流行っていた劇画が大好きだった。辰巳ヨシヒロや山森ススム、さいとうたかをがお気に入りだった。そのうちにさいとう派の有川栄一が好きになり、彼の流れるような動きのペンタッチを真似するようになる。Gペンと墨汁が欲しいといつも考えていた。
もうひとりの友は、私が先生に反発ばかりしていたと語った。あんなに先生に反抗するなんて凄いなと羨ましく思っていたらしい。私は普通のオトナシイ少年だとてっきり思っていたからずいぶん外部の目と開きがある。

明け方の驟雨は10分ほどでやんだ。一雨来たあとは急に涼しくなった。タオルケットだけでは肌寒く、もう一枚夏掛けを押入れから引っ張り出した。目が冴えて眠れなくなり、青い闇のなかで、少年時代を回顧する。

夏休みは、朝の10時まで友達を誘いに行ってはいけないというルールがあった。朝の涼しいうちに宿題や自由研究をやりとげるように指示されていた。扇風機にあたるのも、子供にはぜいたくと、机の前に座って汗をぽたりぽたりとノートにこぼした。その水溜りをみずうみだと見立てて、漫画を描いた。描いているうちに夢中になった。
あまり静かに勉強しているので、気になった母が、上からノートをのぞきこんだ。「あんた・・・」とあきれる声がして、ノートを慌てて隠したが間に合わない。
昼からの海水浴は取り止めとなり、私は終日家に謹慎蟄居の身となる。

夕方になれば、東洋紡績のグラウンドで野外上映会が開かれた。夏休みだから、子供向けの東映時代劇だった。夕方6時過ぎからそわそわした。映画を見に行ってもいいと、厳格な父が許可してくれるだろうか。近所のこどもたちが出かけて行くのが分かる。父は素知らぬ顔で黙々と飯を食っている。早くいかないと、ニュースも見られないから私は気が気でない。
下から父の顔をうかがうと、「明日はちゃんと勉強をするか」と厳かにのたまう。
映画が見られるなら、この際なんでも約束する気になっている私はうなづく。「行ってよし」
慌てて家を飛び出し、国道を越えて東洋紡績のグラウンドに向かう。
会場では大きなスクリーンがテニスコートのフェンスに掛けられ、風にぱたぱた揺れていた。映画はまだ始まっておらず、顔見知りの友達を探して、茣蓙の上に腰を下ろす。
やがて映写機に灯がつき、会場がどよめく。レンズに虫が入ったといって大騒ぎをし、リードの秒数カットに大声を上げる。「5、4,3,2・・」
それから2時間。私の夏休みの至福の時間となる。

夜が明けた。裏の戸を開けた。いちじくの木が夏の日を浴びて立っている。時折、朝の風が吹き抜けていく。
昼からの列車で東京に戻る。その前に家の掃除と片付けをやって、一風呂浴びよう。蝉が飛んできて鳴き始めた。8月9日、長崎原爆の日。今日も一日暑くなりそうだ。

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by yamato-y | 2010-08-09 09:06 | ふるさとへ | Comments(0)

別るる吾を哀れとみよ

別るる吾を哀れとみよ

今朝も晴れた。窓という窓はすべて開け放ち、布団を干し、枕を日向に出し、家周りを掃く。3日いたが一度もエアコンを使わなかった。せいぜい扇風機の風だけにした。だから体調もいい。

ダイニングテーブルを拭こうと思ったら、中央にカナブンが腹を見せてひっくり返っていた。壮烈な死である。買い置きしておいたバターロール3ケ口にする。冷蔵庫を確認すると、おにぎり一つ、プリン3個、バナナ1本が残っている。プリンは今度来たときにして残りはたいらげて帰ろう。

指差し確認していく。
まず風呂場を点検。操作盤の目盛りを高温から低温に下げた。湯船もきれいに洗い、窓も閉めた。洗濯機の電源は切った。台所のガステーブルの元栓も締めた。一階はおおむねよし。

裏の戸を閉める。青々とした無花果の木が隠れていく。小川の光る水が消えていく。

母の最後の短歌ノートから

母に寄り添ふごと 病室(へや)の窓に眺む 浮雲の後につづく小さな雲
主よ守り給へとひたすら祈る今日から始まる治療のことごと
横浜の病院に到着まもない、9月15日という日付だ。

さあ、帰ろう。

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by yamato-y | 2010-07-19 08:39 | ふるさとへ | Comments(0)

雨のお墓参り

雨のお墓参り

土曜日、昼近くの電車で敦賀へ帰る。疋田あたりから雨脚が強まる。
敦賀駅に着いたときは本降りになっていた。

 3時過ぎ、実家の前に立つ。主はいなくても庭の木々は青々として美しい。紫陽花がいい具合に咲き零れている。ホタルブクロも花が少し赤みを帯びている。親父が丹精して作った庭は今も無事だ。玄関の鍵を開けて入った。家の匂いがした。母が元気だった頃は気がつかなかったが、無人となってみると家の匂いがぷんと鼻につく。おそらく前からあったにちがいないが、母が動いているときは母の動静に意識がいっていて、匂いは無意識下となっていたのだろう。これが我が家の匂いかといささか感に堪えない。玄関を上がって台所に入るとすぐに、窓という窓を開け放つ。網戸からいい風が入ってくる。冷蔵庫を開けると、ビールの1ケースがあった。

座敷の小机に飾ってある母の遺影と父の写真の前に出て、「ただいま帰りました」と報告をする。足を崩して一息いれると、どっと汗が出てきた。蒸し暑い。シャツの前を開け、そばにあった団扇でぱたぱた扇ぐ。
雨が小降りになってきた。西の空がわずかに明るい。お墓参りでも行こうかと、立ち上がる。父が眠っている教会の墓地は家から500㍍ほどにある。そのすぐそばに先日亡くなったことを知ったOさんのお墓もあるから、都合いい。

庭の紫陽花を数本切り取り、自転車の前籠に入れた。右手に傘を持ち左手でハンドルを操作し丘上の霊園を目指す。途中、国道8号線を走るのだが、片手ハンドルはさすがに恐い。そばを車がびゅんびゅん走り抜ける。桜ヶ丘の坂下までは小ぶりだった雨が、急に大粒の雨にかわる。

霊園に着くと、さすがに雨の墓地には誰もいない。備え付けのバケツに水を半分ほど入れ、ひしゃくを落とし込み、片手に紫陽花の花束をかかえて、まず父の墓に向かう。教会の墓は正面に聖書の一節が刻まれた大きなモニュメントがあり、その傍らに物故者の氏名を刻んだ銘板がある。そこに父の名前があった。信義と刻まれた文字を水でごしごし洗い、「もうじき、来るから待っていて」と母の納骨が近いことを父に伝えた。

一区画離れて、Oさんの眠る一家の墓がある。ここではお花だけ供えて手を合わせた。雨は依然として降っている。
霊園は小高い丘の上にあり、眼下には青々とした田んぼが広がり、真ん中をにバイパスの大きな道が貫いている。土砂降りの雨で遠くは霞んでいたが、誰もいない丘からの眺めは清々するものがあって、何か勇気が湧くような気がした。

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by yamato-y | 2010-06-27 19:31 | ふるさとへ | Comments(0)

西へ

西へ

朝から暑くなった。8時半の電車で京都に向かう。
今日から休暇をとって大学へ向かう。そのあと、敦賀に戻って実家の整理にあたる。
今年の梅雨は去年より気温が低い気がするが、気のせいか。

 小鳥が鳴いている。生い茂った葉のなかから優しい声が聞こえて来る。
 7時半になった。この続きは今夜木屋町のホテルで書こう。一旦擱筆。

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by yamato-y | 2010-06-24 07:22 | ふるさとへ | Comments(0)

梅雨入りした大磯の森で

梅雨入りした大磯の森で

カートにVHSのビデオテープを20本詰めて山道を下る。重さに手をとらそうになる坂道を及び腰で下っていて立ち止まると、どくだみの白い十字の花が雨に濡れていた。葉にびっしりと雨粒を受けて首をかしげるような風情。昨日までの暑さは消え、梅雨特有の肌寒さが広がっている。ケヤキの幹が雨にうたれて黒黒と光っている。麓の草むらは鮮やかな鶯色の塊となって、雨風になびいている。大磯の森は霧のような小雨のなかにあった。6月14日、とうとう梅雨が来た。

朝はひと騒動あった。2階のガラスの屋根がひび割れしていて、そこから雨が少し漏っているようだ。秦野の工務店に連絡をとって見てもらった。ひびは広がろうとしているから新しいものと取り替えたほうがいいという。思わぬ出費だ。朝から景気の悪い話だとイラつきながら出勤する仕度をした。

ショルダーバッグをたすきがけし、トートバッグとカートを右手に持ち、左手にビニ傘を差してツヴァイク道を下った。道端の草むらに蛇苺の紅い実がぽつぽつとある。道の脇からちょろちょろ水が湧き出して、山道に沿って麓の谷川に向かって流れていく。句材にならないかと頭をひねるが何も思い浮かばない。

現存在ということを考えている。人間は死にゆくものだ。死に向かって生きている。今生きているとは、死に行く過程の一こまである。そうやって今の生の在り場所を定めたうえで生の行為を決めていく。今ということを前景化させる。
こんな立派な生き方をする人はどれだけいることだろう。夏目漱石なんて人もそんなことを考えながら生きていたのだろうか。彼が小説のことを構想しながら、文机で鼻毛を抜いていたときもそう今を規定して生きていたのか。本当に。

梅雨の童謡。「雨が降ります 雨が降る 遊びに行きたし傘はなし」後の文句は忘れた。子どもの頃を思い出す。北陸の梅雨は長かった。いつまでも雨が降り続いた。することもなく、台所の板の間で転がっていた。おなかが空いても食べるものなどなかった。梅雨どきは枇杷でも梅でも食べてはダメだと注意されていた。家には誰もいなかった。おそらく留守番でもしていたのだろう。板張りの床がひんやりとして気持ちよかった。ごろごろ転がって敷居にぶつかっていた。テレビもない時代だから2年生か3年生の頃だ。ガラス窓に息を吹きかけて出来る模様が何かの発明にでもならないかなどと、愚にもつかないことを考えていた。父母の懐袍にあった時代だ。

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by yamato-y | 2010-06-14 13:22 | ふるさとへ | Comments(0)

霊界の入り口で

霊界の入り口で

誰もいない実家で2晩過ごした。電気と水道、ガスは一応通じてはいるが、めったにしか使わない風呂を沸かし、ガスで魚を焼き、テレビ画面にDVDを再生して稼動させた。静まりかえった屋敷を揺さぶって、眠りから覚まさせようというのだ。そういうジタバタはかえってよくないようだ。夜が更けるにつれ不気味さは徐々に漂いはじめた。小暗い仏壇の金具が鈍く光りだし、床の間に安置された母と父の遺影がぼーっと浮かびあがる。

よせばいいのに、仏壇の扉を開けて、内部を整理することにした。上段の下手に大きな位牌、上手に繰り出し位牌が鎮座している。中央には阿弥陀如来像が架かる。
繰出し位牌の蓋を外して、中を調べる。白木の札板が数枚入っていた。
元来は三十三回忌を終えた古い位牌をひとつにまとめる為に繰り出し位牌は使用されるのだが、四十九日法要をもって直接木札にされるのもあるようだ。繰り出し位牌のいくつかの木札には享年が2歳、1歳という短いものがあった。

仏壇の引き出しを開けると、母のメモらしいものがある。どうやら、繰り出し木札8枚の説明書のようだ。8名中5名の人物の名前はいかなる血族か想像がつく。祖父と祖母の名前は知っている。さらに曽祖父と曾祖母、曽祖父の後妻の名前は判明したものの、残る3枚の消息は初めて知るものばかり。K子0歳、Y子1歳、T男1歳、みな乳児で死亡している。どうやら、父の弟妹らしいと見当がついた。
驚いた。父に2人の妹と一人の弟がいたなんてことは初めて知った。死亡年を見ると、大正14年、昭和2年、昭和6年とある。都会はともかく地方は不況であえいでいた時期の死である。生育環境も充分でない時期に乳児たちはその姿を一瞬垣間見せただけで、永遠の彼方へ旅立っていたのだ。何か、赤子の泣き声が闇のなかから聞こえてくるウィリアム・ブレイクの詩を思い浮かべる。ブレイクは夭折した赤子たちを天使として見立てる詩が多かったと覚えているが。

ひたすらに還りくる子を待ちまちし姑逝きて五十年共にここに眠る

母の短歌である。父の母つまり私の祖母は、49歳で昭和24年に逝った。寡婦の身で頑張って男の子2人育てて奮闘の末の脳溢血死だった。21年に長男が復員しやっと親子の暮らしができると思った矢先の死。無念であったにちがいない。不幸であった祖母の運命を、生前の父は密かに悲しんでいたと今になって知る。その母子が今同じ墓に眠ると歌った母も泉下の住人となってしまった。

かくして私は深夜物音一つしない静寂(しじま)のなかで、一人がさごそと動きまわり霊界と交通しようと思い立つも、途中で怖くなって引き返した。


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by yamato-y | 2010-05-31 17:59 | ふるさとへ | Comments(0)

知って悲しい花いちもんめ

知って悲しい花いちもんめ

2月4日のブログに「悲哀の感情」という題で故郷の友人Oさんの消息が気になると書いた。

《数年に一度、眠りにつく前に過ぎ去った日々を思い出し、その頃に関わった人たちのことを思い出すことがある・・。
Oさんというその人は敦賀に戻ったということを、あるきっかけから知った。市営アパートに住み、お兄さんが経営する寿司店の手伝いをしていると聞いた。どうやら、私の亡くなった父と同じお茶会にいたこともあるようだ。Oさんの娘さんの就職の相談にものったこともある。再会して数年は、年に1回ほど会うことがあったものの冬のソナタで多忙になった頃から間遠になった。どうやら引っ越しをしたらしい。ぷっつり消息も途絶えた。・・・30代40代の頃だったら、またどこかで会えるさと思えるだろうが、60を過ぎるとそうはいかない。もう会えないのだろうという悲観のほうが大きい。大きな病を経験しているその人は、まだ生きているだろうかとすら考えるようになる。・・・》

これを書いたときは退院したばかりの私だったので、つい気の弱いことを書いてと後から反省もした文章だった。が、当時杞憂であってほしいと念じつつ、Oさんの死をちらりと予感したのも事実である。Oさんは再会する数年前に乳がんを患っていたのだ。

そして、今夕、Oさんが7年前に死去していたということを、故郷の知人から知らされた。享年51だったのだ。なんと早い死か。
しかし、7年も前に亡くなっていたという事実に胸を衝かれる。わたしたちが知り合いであったことを知る人はほとんどいなくなった。だから、その人が他界したときも私に知らせを届ける人も術もなかったのだ。
この知らせを聞いて私は、ただ瞑目するしかない。漱石の句を添えておく。
 あるだけの 菊投げ入れよ 棺の中
                            合掌
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by yamato-y | 2010-05-01 00:28 | ふるさとへ | Comments(0)

昭和37年、懐かしい年からの手紙

昭和37年、懐かしい年からの手紙

中学校の同窓会の案内が届いた。37年卒業生の会で、今年の8月にふるさとで行われるという内容だ。発起人の名前のなかに同級生のものがあるから、たしかに私は37年春に卒業したのだろう。てっきり38年、豪雪の年だと思い込んでいた。あの頃は毎年のようにたくさん雪が降ったから勘違いしていたのだ。この年の春に高校へ入学して、6月に北陸トンネルが開通した。日本で一番長い隋道が近在に出来たということが嬉しかった。

37年の2月。卒業がまもなくに迫ったある日、担任がいつになく神妙にホームルームを始めた。進学、就職の進路がだいたい決まったので、皆に報告するという。50人ほどの級友の行き先が黒板に向かって左側、下手側から順に告げられた。普通高校に進学するのは10人に満たない。工業高校へは5、6人、よその町の私立高校や定時制高校へ通うというのが3人ほど。残りの人は就職だった。県外の紡績工場や鉄工場に勤める人、家業を手伝う人だった。高校全入の今からみると、義務教育を終えて仕事に就く人の数が信じられないほど多かったのだ。

同窓会役員名簿を見ると、女子がほとんど括弧つきで旧姓と記してある。みんなお嫁に行き、いいお母さんになったのだと心がほころぶ。役員はどうやら各クラスから一人ずつ選ばれてあるらしい。当時は9組まであった。この数も隔世の感がする。さて、私は3年生のとき何組だったっけ。担任のバンバコの顔は思い浮かべられるが、クラスが思い出せない。5組だったか、8組だったか。
 
テレビに夢中だった。「シャボン玉ホリデー」「夢で逢いましょう」がお気に入りだったが、それ以外の「アベック歌合戦 」のようなオチャラケが大好きだった。思春期のとば口に立っていたから石原裕次郎の“恋”の映画に興味津々、でも学校からは映画は禁止されていた。ラジオで覚えた「紅いハンカチ」を鼻唄で歌った。クラスメートの増田くんが家に裕次郎のドーナツ盤があるから貸してあげようと言われて、冬の冷たい雨のなかを取りに行ったことを思い出す。曲名は「淡雪のワルツ」と「残雪」だったのは季節のせいだったろうか。月影に残雪冴えて 山は静かに眠る、なんて歌詞をどんなつもりで聴いたか思い出せない。が、歌詞はしっかり身についている。

 「ホイホイミュージック」のなかで、飯田久彦が歌った「ルイジアナ・ママ」が気に入った。が、歌詞がいまひとつ理解できない。
♪あの子はルイジアナ・ママ やって来たのはニューオリンズ
髪は金色、目は青く、本ものだよ ○○×× △△○○

最後が聞き取れなかった。当時からヒアリングは苦手だった。今調べたら、ディキシークィーンとなっていた。「本ものだよ」の意味が分からなかった。天然以外に贋物の髪や目の色があるなんて想像は当時できない。
この頃、クロサワは絶好調で、「椿三十郎」を放っているが、私の視野にはまったく入ってこない。大相撲で大鵬だらけのなかで、五島出身の佐田ノ山が頑張っているのがなぜか嬉しかった。
まだ、親の庇護のもとにあったのだ。

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by yamato-y | 2010-02-25 13:42 | ふるさとへ | Comments(1)

悲哀の感情

悲哀の感情

冬の冷たい雨が降る朝に、山道の石垣で出会うと心詰まる光景がある。石垣のつなぎ目から雨が染み出て来る様だ。日頃忘れている喪失感が魂の隙間からこぼれ出て来る様に似ている。

数年に一度、眠りにつく前に過ぎ去った日々を思い出し、その頃に関わった人たちのことを思い出すことがある。いろんな事情が重なって今では遠い人となっていった人たちのことを思い出されてとまらないということがある。もう会うこともあるまいという悲哀の感情が魂という石垣の隙間から染みでてくるのだ。
昨夜も敦賀の知人のことを突然思った。Oさんという、その人とは高校時代に知り合った。私が大学を出て就職する年に、彼女は高校を卒業して神戸のデパートに勤める。2年後、私は神戸の東灘に住んでいる頃再会した。三ノ宮のデパートのエントランスを飾る華やかな女性になっていた。私はその後東京へ転勤になり、彼女は神戸の旧家に嫁いだらしいと、風の噂で聞いた。

それから30年ほど経った。私が地方紙に数回コラムを書いたことがある。それを、彼女は読んで連絡をくれることがあった。
その人は結婚して娘をさずかったが、婚姻を解消して敦賀に戻っていた。一人娘を育てながら働いていた。胸をつかれたのは40代の後半で乳がんを患っていたことだ。健康に不安をもちながら、外語大で学ぶ娘さんの将来を懸命に案じていた。その切羽詰まった思いをひしひしと感じた。

敦賀に戻ったということで、その人の消息は分かっていた。市営アパートに住み、お兄さんが経営する寿司店の手伝いをしていると聞いた。どうやら、私の亡くなった父と同じお茶会にいたこともあるようだ。娘さんの就職の相談にものったことがある。だが、年に1回ほど会うことがあったものの冬のソナタで多忙になった頃から疎遠になった。不景気がその人を取り巻く情況を大きく変えたらしい。どうやら引っ越しをしたらしい。ぷっつり消息も途絶えた。

30代40代の頃だったら、またどこかで会えるさと思えるだろうが、60を過ぎるとそうはいかない。もう会えないのだろうという悲観のほうが大きい。大きな病を経験しているその人は、まだ生きているだろうかとすら考えるようになる。単に、もう会えないというより、自分の人生が閉じられていくという閉塞感につながっているほうが大きい。

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by yamato-y | 2010-02-04 08:44 | ふるさとへ | Comments(1)


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