さよなら、なのだ!!
1995年は今に繋がる現代という時代の節目。地下鉄サリン事件が起き、神戸淡路大震災があった。バブル崩壊による長い不況の始まりの年でもあった。
もう一つ忘れてはならないのは、赤塚不二夫が最後の作品を描きあげた年でもあるということ。作品を描き終えた後の大宴会で、友人たちと肩を組んでラインダンスを踊って終わった。
その歌は「さよならのルンバ」。♪このまま お別れしまーしょー、シャンシャンシャンシャン。
とそれから10余年、赤塚は漫画を一度も描くことなく、今日の告別式をむかえることになる。
昼のニュースでその模様が流れている。タモリが弔辞を読んでいる。おおぜいのファンが別れを惜しんでいる。それは分らないでもないが、本当の別れを惜しむ人は、やはりトキワ荘の頃からの仲間だったろう。その大半は物故して、今頃は天国で再会しているのかもしれない。寺田ヒロオ、藤子F不二雄、石ノ森章太郎…、そして赤塚が一番好きだった母ちゃん。おっとまだ生きている人もいる。長谷邦夫、古谷三敏。藤子A不二雄、ちばてつやも忘れちゃいけない。
昨夜の通夜の席には、往年赤塚とわたりあった古参の編集者が幾人もいた。そういう人たちの会話を人ごみに混じって立ち聞きした。白髪が「記帳のところでさ、お名刺をと言われたんだけどさ、今じゃ、住所以外に書くものねえから、持ってねえと言ったんだ。」と言えば、「バカだなあ、肩書きのところに大金持ちってでも書くんだよ」とハゲデブがからかう。70過ぎのジジイたちの会話にニヤリとする。みんな、赤塚不二夫とそのチームに鍛えられたんだ。有名なタケイ記者もいた。神妙な顔で坐っていた。
その武居俊樹の名著『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文藝春秋)に、私にとってズキンとする箇所がある。
手塚治虫はアイディアから絵の動きまですべて自分でやらないと気がすまない人物だが、赤塚は違うという。柔軟な人だった。
最初の妻登茂子がなにげなく「不二夫さんの絵は古いんじゃない」と言ったところ、赤塚は考えこんでしまった。そして共同執筆者に高井研一郎を入れる。その後古谷、長谷たちなどブレーンを自分のなかに取り込んでいく。妻登茂子曰く「自分の絵が古かったら、絵がうまい人を入れればいい、って考えられる人。作品を良くするためなら、誰にでも頭を下げられる謙虚さを持ってるの。プロデューサー的資質があるのね。」
赤塚不二夫というのは個人ではなく符号のようなものだと、赤塚は考えていた。この登茂子の最後の言葉にズキン。「作品を良くするためなら、誰にでも頭を下げられる謙虚さを持ってるの。プロデューサー的資質があるのね。」
テレビのプロデューサーである私はどうか。作品を良くするためなら、誰にでも頭を下げられる謙虚さを持っているか。おそらく周りの人たちは口をそろえて、「ない」と答えるだろう。つまらないことに意地を張って、すぐカリカリする人って言うにきまっている。
タケイ記者が著書の最後に記した赤塚の言葉を、引いておく。
「立派な馬鹿になるのは大変なんだ。だから、馬鹿になる自信がなかったら、ごく普通の利口な人でいたほうがいいよ」
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