そして冷たい夏となり
今朝も明けた。雨はないがどんよりとしている。
6月も下旬になろうとしているのに寒い日が続いている。去年であれば、今頃、毎日汗をかきっぱなしであったと記憶するが。
昨夜は2つの話を聞かされた。一つは20年前のあの忌まわしい出来事の決着であり、もう一つは敬愛する作家に襲った悲運である。二つに何の関連もないのだが、私のなかの「聴覚映像」は重なって響いてくる。
で、どうするのですかい、と自分で問うてみても途方にくれるばかりだが。
追い払っても、その聴覚映像は引き裂かれた寒天のように私のどこかに付着している。
思いなして、今日の予定を考える。
10時45分までに、品川駅新幹線ホームに行く。「のぞみ」に乗車して大阪へ。夕方に取材を始めて、今夜は大阪泊まりとなる。
だから、どうだと言うのだ、と暗い響きが聞こえる。
敬愛する人はパートナーを喪失した。私と同世代のはずだから、早すぎる死だ。
若い頃に遭遇した苦難をともに歩いて来た比翼の人であったろうから、その喪失はどれほど深いものとなっているのだろう。
文学の力はどれほどのものになってくれるのだろう。
枕元に置いた、古井由吉の『聖なるものを訪ねて』を手にとり、ページを繰る。
《死者の静けさということになるが、その静まりを感じているのは生者である。》
何とも意味深な言葉がそこにあった。
静まり、ということで昨日の昼に聞いた話を思い出す。ベトナム戦争末期にカンボジアとの国境沿いの密林を従軍したカメラマンから聞いた話だ。
ある草原まで来たときだ。一面夏草が生い茂っていて遠望できた。ところが草原は静まりかえっていた。あまりに静かであることに恐怖した。後から、ドイツの特派員たちが来てそこを越えて行くが、そのカメラマンは動くことができなかった。
「どうしてですか」と愚かな私は聞いた。
ベトナムの森は煩いほど鳥の声や虫の音がする。それがない。鳥も虫も何かを感じて息をひそめている。
何かとは。おそらく、その草原に夥しい人が潜んでいるのだ。すさまじく緊張した人々がいる。だから鳥も虫もなかない。
「あんなに怖かったことはなかった」
老いたカメラマンは言った。サイゴン陥落のときも留まって進駐してくる北ベトナム兵を撮影した人物で、亡くなった一ノ瀬泰造らと戦場を駆け回ったこともある。そのカメラマンが洩らした恐怖。
死者の静まりというのは欠落したものではなく充満したものかもしれない、とふと思った。
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