はなれ雲
暮れでありクリスマスイブである。
穏やかな日差し、やや風があり、海は青ざめている。
天上は大風か。雲が南西に向かって千切れ飛んでゆく。
朝から自分の部屋の掃除をして書棚に雑巾をかけた。昔の手紙が出てきたりして、つい読みふける。書棚にあった文庫本の『方丈記』を取り出す。
「知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。」
「方丈記」の一節だ。私は知らない。人はどこから来てどこへ行くのかと、問う鴨長明。これを書いたときの長明も60歳であった。
「人の営み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。」
人間の営みといっても、都市の繁華なところに家を建てたり蓄財したりすることがどれほどのことか。
都を離れて、日野山の麓に方丈というほどの小さな庵を建てて隠棲した長明。その無常の見方にこのうえなく引かれる。
一方でいのちということにも目が向く。ほぼ同じ時代の西行の晩年の歌こそ、同感する。
「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」
年老いて再び越えることがあろうなどと思ったであろうか、これも命あってのことと、小夜の中山を再び越えつつ、と感謝する西行。西行69歳の時の歌である。
冬至を越えて、これから少しだけ日が伸びる。日脚伸ぶ、ということもいのちか。
無常はいのちにあるのか。いのちは無常のものか。
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江ノ島がきれいに見えている