自動化された意識
自戒も含めて考えるのだが、現在の「映像」があまりにも自動化された認識のうえに成り立っているのではないだろうか。
巨樹のもつ威厳とか風光明媚な世界遺産とか、カレンダー写真のような常套化された映像ばかりが流される。
同じ歴史遺跡にしろ、今から30年も前の「未来への遺産」という特番がもっていたオウラが今の「遺産」にはない。マチピチュを初めて見たときの興奮が今はない。撮り方はずっと進歩しているのに番組が面白くない。
何度も、そういう風景を見てきたから飽きたのだろうか。私たちはたいがいのことは認識してしまったのだろうか。
言い古された言いかただが、テレビの語源はテレ(遠く)ビジョン(見る)。見たことがないものを見せるという見世物と同じ起源だ。「遠く」という珍奇なモノがなくなったからマンネリになったのか。銀河系というマクロコスモスから遺伝子というミクロコスモスまで、テレビの耳目はすべて見尽くしたということか。終わったということか。
映像の歴史のなかで、マチピチュやサクラダファミリアが眼前に現われた驚きと同じくらい息を呑んだのが、スターウォーズの円盤の飛ぶ画像だった。カメラの頭上を越えて行く円盤。その“腹”が下から仰ぐ画面だ。それまで見なれた空飛ぶ円盤とはまったく違った美しいフォルムをもった円盤だった。アニメでもある。「魔女の宅急便」で魔女が箒に乗って飛ぶ練習をする場面だ。少し飛んでは失速する浮遊感覚にリアリティを感じた。
SF作家で「アトム」や「エイトマン」のアニメライターを経験している豊田有恒はその著書『日本SFアニメ創世記』で興味深いことを書いている。今でこそカメラ機材が発達しCGが発達したので、追跡する車の下部が映り込むような映像を見受けるが、1960年代はそれが実写ではできないがアニメではできた、そういうアングルを考想したアニメの演出家がいた、と豊田は伝える。
珍奇な素材、モノを探すことよりも先にやらなくてはならないことがあるようだ。映像表現でまだ誰もしらない手法があるのではないだろうか。
われわれはあまりに常套化された映像文法で惰性のように番組を大量に送り出してはいまいか。映像を作る者も見る者も意識が自動化されている。これをぶち破る「異化」を今こそ考えなくてはならない。
蛇足だが、政治においても意識が自動化している。保守党の長期に続いた政権のため私たちのどこかで思考停止がある。「流水濁らず」か。
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