春燈下
スタンドを燈して本を読む。
子供がそうしていると、
「おい、目が悪くなるから部屋の電気もつけな」と注意を与えるのだが。自分のこととなると周りが薄暗いほうが、読書に集中できるのでそうしていたい。
勝手なものだ。自分の目だから多少悪くなっても自分の責任をとるまで。できるなら、快適な読書を過ごしたいと願ってしまう。
だが、わが子となると、ちょっとした不健康なことでも気がかりとなる。特段、私が愛情深いわけでもない。自分の不養生は見逃せるが、他人のそれは気になるものだ。
春の燈という季語は蕪村の時代から始まったと角川の歳時記には書かれてある。
久しぶりに大磯にもどり、春の燈が照らす夜の庭を見ていると、先日帰った故郷敦賀の山河が浮かんでくる。
敦賀から京都へ向うと、地溝帯の断層となる険しい山々となる。その入り口に衣掛山と美しい名のついた山がある。この山の標高差は大きく、列車は一気に駆け上がることができず、ループ式で衣掛山を巻くようにして登って行く。だから、ある箇所では進行方向が逆になるのだ。離れたはずの敦賀の町が前方に現れる。前後がトンネル内なので、一瞬夢のように日本海がぽかりと浮かび上がるのだ。この風景が私は好きでたまらない。
その題にひかれて、島本久恵の『春昼灯下の記』を買った。冒頭の「出雲」の中にこんな一節があった。
「私は歩けなくても、夢にでもよいまたあの山の、谷の、水の、出雲へ行って見たい。」
歩けなくなればなるほど、“行ってみたい”という思いは増すばかりと私は解した。
春灯下――あやしうこそ、ものぐるほしけれ 「古今和歌集」を手にとった。
ふるさとの花のさかりはすぎぬれど
面影さらぬ春の空かな
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