永田耕衣の友のうた
植木等さんの亡くなる少し前に、作家の城山三郎が死んだ。70代だったから少し早いと思った。20年前は、この人の小説は好きではなかった。というか、経済小説という触れ込みで食指が湧かなかった。なんとなく財界御用達の作家というイメージがあった。だが、あるとき先の戦争について厳しい判断をしているのを新聞で知って、ふと読んでみようかと思ったことがある。だが、それは実現せずそのままとなっていた。
今朝図書館に行ったら訃報の作家の特集で城山の過去の作品が陳列してあったので、数冊借りてきた。
その1冊が『部長の大晩年・永田耕衣の満開人生』だ。神戸に住んでいた俳人永田は大震災に遭遇していて、その後寝屋川の老人ホームで晩年を送る。その頃に城山は永田を訪ねて取材を開始したようだ。
実は、私も同じ頃寝屋川に永田を訪ねて取材をしている。ちょうど震災から2年ほど経っていた。95歳の疎開暮らしの中で詠んだ彼の句が、新聞に載った。「枯草や住居無くんば命熱し」
95歳とは思えない、被災したとは考えられない、強いエネルギーをこの句から感じた。この人物をドキュメントしたいと、東京から私は大阪へ飛び取材交渉にあたった。
この企画は結局実現しなかった。永田の車椅子生活は予想以上に困難に満ちていたのだ。
こういう因縁もあって、城山の本書は興味をもってひもといた。永田は55歳定年まで大企業の勤め人として全うしながら、一方俳人として生ききったということに私は強い関心をもつものの、本書に登場する他の俳人詩人の言葉がいくつか気になる。ここでは、それを記しておきたい。この言葉を選んだ城山三郎の目をつよく意識する。
まず秋元不死男の句。
渚にて見し初蝶を夢に見ず
蝶を見た幸運を喜んだが、夢には出てこなかったという意味であろう。秋元の夫人は、これはもう一度会いたいという心境を指しているわけではないという。「現実のいちどの出会いは、もう一度そのまま繰り返しは望めないのだ」という作者の苦い認識だと、いうのだ。このエピソードを城山はどういう気分で紹介したくなったのであろうか。城山も同じことを考えていたのであろうか。
もう一つ、永田の年少の友人赤尾兜子の句。彼は定年直前の56歳で昇天した。
初寝覚焦らぬことを誓ひつつ
新聞記者であった赤尾は、定年になったら書画展を開いて余生をうちこみたいと語っていたという。まもなくそのときをむかえる、その直前で倒れたのだ。私と同業者であるだけに、この句は他人事ではない。
永田耕衣を思い、城山三郎を偲んでみようと読み始めたのだが、この本の周辺の人たちが気になってしかたがなかった。
前後するが、秋元不死男についてはもう少し書く。彼は京大俳句事件で2年間獄中を体験している。出獄すると、家は空襲で廃墟となっていた。そんな過酷な体験を経ているにもかかわらず彼は家庭を愛した。息子を詠んだこんな句がある。
子を殴(う)ちしながき一瞬天の蝉
そのうたれた息子とは、シャボン玉ホリデーの名ディレクター秋元近史である。彼はその才能で人を驚かせたものだが、絶頂期自死した。
永田耕衣が絶賛したという、高橋新吉の「留守」という短い詩。
留守と言え
ここには誰も居らぬと言え
五億年経ったら帰って来る
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