側にいてほしくない奴
昔から小林秀雄と署名があれば、その文章は読む気がしない。大学受験の頃、国語の読解の問題には至るところに小林の文章が使われていたのだ。「考えるヒント」「ゴッホの手紙」など彼の文章は明晰、見習うべき文章とタバコ臭き田舎教師が誉めそやした。といっても、私にはただ文法的にきちん書かれた文章で、説教を垂れているとしか思えず、読む気が起こらなかった。
そんな小林の中で、一編だけ気に入ってかつ映像的だと思う文章がある。「中原中也の思ひ出」という題がつけられている。
昭和12年4月20日、晩春の鎌倉での出来事について書かれた文章だ。
千葉の療養所から退院した中原が鎌倉に越してきたのは、その年の2月だった。近所に小林がいた。かつて友達だったがある事件で二人はずっと疎遠となっていた。が、ある日、中原が小林のところへやってきた。二人は連れ立って、日本一といわれる妙本寺境内の海棠の花を見に行くのだ。
《晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見てゐた。花びらは死んだような空気の中を、まっすぐに間断なく、落ちてゐた。樹陰の地面は薄桃色にべっとり染まってゐた。あれは散るのぢゃない、散らしてゐるのだ、一ひら一ひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めてゐるに違いない、何といふ注意と努力、私は何故だかしきりに考へてゐた。・・・》
美しい映像が浮かんでくる。
だが、これを美しい物語に編むためには、この二人を取り巻く情況をその前段に伏線として張り巡らさなければならないだろう。ここがシナリオ化のポイントとなるのだろう。
かつて小林と中原は長谷川泰子という女をめぐって傷つけあったことがある。小林が中也の女を奪ったのだ。以来、中也は「口惜しい人」になる。小林にも重いものが残る。
それから8年ほど月日が流れて、この日の海棠見物となるのだ。その頃、二人は泰子とは違う女とそれぞれ結婚していた。中也はこの再会の日から半年足らずで死ぬことになる。病死だ。
海棠を見物したあと、二人は鶴岡八幡宮の茶店でビールを飲む。飲みながら中也は「ボーヨー、ボーヨー」とつぶやく。小林が、何だそれはと尋ねると、「前途茫洋のボーヨーだ」と中也は答える。・・・
この一場の光景は昭和文学史にとって記憶さるべきものだが、当時の二人には関係なくただ酒を飲むばかり。小林の脳裏にはさきほど見た海棠の大きな花が依然ぽたりぽたりと落ちている。
晩年の中也は精神が不安定でいくぶんおとなしくなったようだが、20前後の頃はどうしようもなく嫌味で狷介な男だったようだ。口がたって、他人をむやみに挑発して喧嘩を売っていた。東大生だった檀一雄はあまりに腹立たしいので、酒場の外で待ち構えて殴ってやろうとしていたほどだ。さしづめ、檀が坊ちゃんなら中也は赤シャツといったところか。年少の友人だった大岡昇平も、中也の嫌味な仕打ちに幾度となく腹をたてている。
ところが、こんな男が残した詩は、えもいわれぬほど美しい。小林に言わせれば根っからの詩人であったという。才能があったにしろ、私だったらこういう人物は敬して遠ざける。側にいたら、年中腹を立てていなくてはなるまい。そんな自分が惨めに思えるから関わりたくないのだ。
今年は、その中原中也が生まれて100年にあたるそうだ。昨夜買った「現代詩手帖」でそれを知って、感無量。
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