達意の文章
このところ、ずっと芝木好子の小説にひかれている。今、代表作の『隅田川暮色』を読んでいる。彼女の得意とする伝統工芸の世界を舞台にした物語だ。主人公の冴子は組紐を修業しており、古代ひもの復元に努力する過程に、つれあいや幼馴染、甥らの男らとのかかわりを描いた作品である。
当初、組紐とか染物とかをあつかった作品だと知ったとき、ああ女流作家特有の気取った小説だと多寡をくくっていた。ところがその世界に仮託されたそれぞれの人生の深みは、近年の作家らのものとは比較にならないほど深い。まだ、読了していないのでこの小説の評価はできないが、気になった表現を抜書きしておきたい。
象牙色の絹の地に墨染めの桜が描かれたきものが登場する。「墨田川夜桜」と銘うたれている。桜花を墨色にぼかしたものである。そのきものは女盛りに似合うと芝木は記す。
《「この妖艶な桜は、幾歳くらいの女の人に似合うでしょう。」「女盛りでしょうね」
「私には六十歳になって初めて着られるようになると思うわ。若い女の顔や身体にこの衣装は映らない。女の終わりが来て、それでも自分を恃む人なら見事に着こなすでしょう。」》
かつては六十を過ぎて、自分を恃む女性がいたのだ。こういう人はけっして倣岸ではなかった。この正反対にあるのがいまどきのホソキカズコのような女性だ。
色を染めるのに化学染料でなく植物染料を使うのが職人の世界だが、紅花や蘇芳を使って直に色を出すことができないのが「緑」だと芝木は書く。不思議ではないか、植物を使っていながら緑は掛け合わさないと出ないとは。そのくだりの文章が心に残る・
《「おやじは緑を染めるのが嫌いだから、首を振った。緑はどの植物からも出ない。色と色を掛け合わせて初めて緑が誕生するから、純粋じゃない。面倒な色だ、と言う。」》
うむ、部分的に抜いて、会話だけ取り出しても芝木の凄みは伝わりにくいと、今この記事を読み返して思っている。どうすれば芝木の魅力を伝えることができるだろうか。
さて、芝木の舞台は昭和30年代、日本がまだ高度成長に突入するまでの頃で、ちょっと昔の東京だ。私自身はむろん経験していないが、なぜか懐かしいように感じられることがちょくちょく出てくる。
夜行列車で帰ってくると、上野山下で降りて「揚出し」に寄ったと芝木は書く。朝風呂のことだ。山下際に「揚出し」の店が朝早くから開いていて、朝風呂があるから吉原帰りや夜行で着いた客が一休みに使ったのだ。旅の垢を流すとさっぱりして、それから座敷にあがって豆腐の揚げたての熱つ熱つを食べる――旅がえりの東京庶民の楽しみであった、と芝木が書いている。
これを読んで、東京駅地下にある「東京温泉」を思い出した。大丸デパートの横にある朝風呂だ。今もあるかもしれないが、ほとんど利用しなくなったので現状は知らない。20年前には、地方へ取材に行き、夜行列車で朝東京に着くと、よくここに入り一汗流しひげをあたって出社したものだ。今は出張する機会も減ったし、夜行を使うこともなくなった。なにより新幹線が便利になって夜をまたいで汽車で旅することがめっきりなくなったのだ。
この年になって、古い作家を新しく発見するとは思いもよらなかったが、嬉しいものだ。この作家の存在を教示してくれた川本三郎さんに感謝する。
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