赤穂義士の場合
12月に入り暖かい日が続いている。東京には雪が降りそうもないが、古来大事件のときには雪が降ったことは有名だ。3つある。1つは赤穂義士討ち入りの時。2つめは桜田門外ノ変。3つめは二・二六事件である。
討ち入りの日がまもなくやって来る。
時は元禄14年、関が原の戦いの記憶がまだ生々しい頃。江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷におよんだ。殿中での刃傷沙汰に将軍綱吉は激怒して浅野内匠頭に切腹を命じた。赤穂浅野家は断絶とされる。喧嘩の一方である吉良上野介には何の咎めもない。喧嘩両成敗が武家の定法とされるはずにもかかわらず、この片手落ちの裁断は赤穂藩藩士にとって腑に落ちないものであった。
翌元禄15年12月15日未明、家老大石内蔵助以下46人の赤穂浪士は本所松阪の吉良上野介の屋敷に討ち入り、吉良の首級を捕ることに成功する。世界的にも名高い赤穂事件の顛末である。世界的というのはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが『汚辱の世界史』という作品のなかで吉良上野介をとりあげ、この事件について書いているほどだ。
さてウィキペディアで知ったのだが、近年この事件をカブキ者の「武士の一分」としてとらえるという見方が出てきたという。
赤穂義士らは幕府の理不尽さに腹をたて反抗を企てたというのだ。単なる主君への忠義によるものではなく、武士としての「一分」を通すために死罪覚悟で、吉良上野介の屋敷への討ち入ったというのだ。《赤穂浪士は当事取締りをされはじめていた平和な社会の秩序に反抗する戦国の気風を色濃く残し、ことさらに奇矯な振る舞いをしたカブキ者ではなかったかと考証されている。かぶき者による類似事件は当事すくなからず発生していた。》
当時流行っていたカブキ者の精神が最大に発露された事件として見られているらしい。現在上映中の山田洋次「武士の一分」もこういう精神と関わっているのだろうか。一度この映画を見に行こうと思う。
さて、以前忠臣蔵外伝として義士の大高源五と俳人宝井其角のことを書いたときに、発句を間違えて記した。ここで訂正しておく。私は、大高源五が其角に会って「年の瀬や明日待たるる宝船」と詠んだと書いた。そうではなく、両国橋で宝井其角が弟子の子葉こと大高源五に会ったのが討ち入る前日のこと。そこで其角は源五を呼び止めて、一句すらすらと書いた。
「年の瀬や水の流れと人の身は」
すると源五がすぐ脇句をつけた。「明日待たるるその宝船」
むろん、これはよく出来た説話だと思うがなかなか演劇的でいい話だ。ただ重要なことは大高源五は宝井其角の弟子であったということ。
《大高源五。金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。吉良家出入りの茶人に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会があることを聞きつけた。俳諧をよくして俳人宝井其角と交流があり、これをもととして「松浦の太鼓」の外伝が作られた。享年38。 》
討ち入り当日は雪は降っていなかったというのが真相らしい。いずれにしろ日本の国民的説話「忠臣蔵」はいくつもバリアントを生み出している。
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