リテラシーすること
近年、映像のリテラシーということが言われるようになった。本来は読み書きの仕方というほどの
意味であろうが、映像について言うと、映像の成り立ち方を解読するという意味が強調される。
今、3人のメンバーで協議して50のドキュメンタリー番組を審査している。3人とも、この道30年のベテランである。
その3人にして、おそらく一人で見ていては、気が付かないことが多々出てくる。
映像の文法において不明が出てくるだけではない。描かれた「事実」の真実性、リアリティにおいてである。
この話は本当にあったことだろうか、それとも「いいとこ」だけを摘んで作り上げたものだろうか、それを見抜く力が問われるのだ。まず、取り上げられた主題に対して、一応の予備知識が必要となる。さらに歴史的素養もだ。
それをふまえて、番組視聴にあたったときにどうしても解せないことが出現してくる。当該の番組に揺らぎが出てくる。だが個人で所有する知識量ではすべてに対応できない。
今回も3人で集まって審議する中で、それぞれのもつ知識、情報が番組評価のときに加えられてゆくと、物語の不自然さが浮かび上がってくる。3人寄れば文殊の知恵だ。そこから、今度は作り手の視点で、映像の構築のされ方を点検してゆくのだ。
文学やドラマではこういうリテラシーは必要ないであろう。むしろリーディング(読み)ということがポイントになる。テキストがフィクションであるうえは、事実性のことは議論の外にあって、描かれた物語世界を読者、観客はそれをどう自らにひきつけて味わうかということになるのではないだろうか。
だが、黒木和雄の初期の映画作品(例えば、「とべない沈黙」とか「キューバの恋人」)になると、ことはもう少し複雑だ。ドキュメンタリー映画出身のこの監督の劇映画は、フィクションとノンフィクションを併せ持っているのだ。それが映画の魅力にもなっている。
昨今話題となるリテラシーは、こういう単発の番組のことではない。むしろ、洪水のように溢れる社会情報、その伝え方、作られ方が問題となっている。「北朝鮮問題」や「秋田小学生殺害事件」のような事例である。
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