随想
パソコンの前に座って、白い画面を見ていたら、「悲しみの」という言葉が不意に出てきた。
これは、隠れキリシタンたちが復活節を待ち望む気持ちだ。
復活が訪れる日を、悲しみの上がりと読んだのだ。
ヨーロッパで使われていた言語を日本化するのに、修道士たちはずいぶん苦労したのであろう。今、聖書で使われている神はまだなかったはずだ。GODはたしか天帝と呼んでいたと思うが。
そういう中で、復活節を「悲しみの上がり」と訳したのは秀逸だ。
でも、それを外して考えても、人生にとって「悲しみの上がり」というのを考えたくなる。
苦難、苦悩は果てることがない。いつかこの悲しみから逃れることができるのはと、凡人であればつぶやきたくなる。
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