管見・偏見 小説作法②
テレビが方法論についてあまり語らないのは、他のジャンルから導入して利用することが多いからだろうか。例えば、映像ということについては映画から相当習うことが多かった。映画で洗練された手法をそのまま利用した。
ドラマとなると日本の場合歌舞伎から得ている手法、用語というものは少なくない。さらにテレビの音声について考えると、ラジオで開発された技法がベースになっているのは、大半のテレビ局の前身はラジオ局という事情がある。このように、テレビは他者が開発発展させてきた成果をそのまま“労せず”していただいたこともあって、手法に無自覚ということがあるかもしれない。
寺田農の「偏愛読書館」では、テレビドラマの原作をこれまで小説に求めてきたが、近年情勢が変化していると語っている。
≪―テレビドラマの原作なんかどうなんですか。
なにをバカなことを言ってるの、少なくとも現在、原作が小説なんてテレビドラマを探すほうが難しいよ、全部原作はコミックだよ、そりゃそうだよなぁ、いまどきの小説なんかよりコミックのほうがはるかに面白いもんねぇ…。≫
先発表現の小説が後発表現のコミックに追い上げられていると言うのだ。
映像と文学の両方の分野に架橋しているのが、作家長部日出雄だ。彼は映画が好きで自ら監督までやったことがあるはず。
彼は本誌でコラム「新 紙ヒコーキ通信」を書いている。この7月号では「日本映画の底力」と題して書いている。映画監督森田正光の演出を例にとりながら江国香織の小説を論じている。
≪江国香織が好んで描くのは、現実にはありえない人間の関係とシチュエーションだと思う。ところが細部の隅から隅まで、人間と時代にたいする鋭利で的確な観察と洞察で満たされているために、あたかも現実に存在する一面をきりとった風俗小説のようにおもわれがちだけれど、じっさいは甚だリアルなファンタジーなのだ。≫
この江国と森田の二人がコラボレートした映画「間宮兄弟」に関する文章でありながら、しっかり小説表現に言及している。
先日話題にした酒井順子のエッセイ「マナーのつづら」では、冒頭において作法について書いているのだ。
≪井上ひさしさんが、「エッセイとはすなわち、自慢話である。」といったことを書いていらしたのを、以前読んだことがありますが、私はその文を一読した瞬間「ああっ!」と叫んで赤面したのでした。≫
エッセイストを自認する酒井は、小説家井上ひさしの箴言にジャンルとしてのエッセイをずばり指摘されて身もだえするのであった。
これまで見てきたように、「オール読物」の1冊を取り上げても小説作法にこだわった文章がこれほどあることに驚きを禁じえない。
最後に、もっと驚くのは、小説作法にこだわるのは送り手である作家、編集者、評論家だけでなく受け手である読者自身も、ということだ。
巻末に「オール談話室」という投稿欄がある。そこで、こんな記事をみつけた。
≪藤沢氏(藤沢周平のこと)は生前、何故小説を書くのかと問われ、こう答えている。「辛く悲しい思いをした人は、それを抱えたままでは死ねない。だから小説を書くんだと思います。」≫
ふざけ半分で、調べてきて、私は少しショックを受けた。小説がこれほど自己点検しているのに比べてテレビはどうか。
少しも省みず、愚にもつかない世迷いごとをだらだらと垂れ流している、ということ。
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