楢山節考
一昨夜は今村昌平(イマヘイ)を追悼して映画「楢山節考」が衛星放送で流されていた。ついつい見入って深夜1時半までなった。興奮が冷めずなかなか眠れなかった。
映画の原作は深沢七郎。姥捨てという非-ヒューマンと思われる現象を乾いた目でみつめ、江戸期の寒村の生態を鮮やかに描いた作品として名作の誉れ高いが読んだことはない。とりあえず映画のストーリーを追ってみる。
信州のとある山村におりんという70近い老婆がいた。村人は楢山という近在の深い山に住む山の神を畏れ敬っていた。その年の冬が来たらおりんは楢山まいりに出かけようと密かに考えていた。山へ行くことは死を意味する。
その年の春から秋にかけて、おりんを取り巻く村では祭り、嫁取り、泥棒、生き埋め、夜這いといろいろな出来事が起こる。そして晩秋となった――
おりんは明日山へ行くと告げる。村人が集まってその夜山へ行く為の儀式が始まった。夜が更けて、しぶる息子の辰平を促しておりんは楢山まいりを決行する。辰平の背負う背負子におりんはまたがり、裏山を登って楢山へ向うのだった。山まいりでは口をきいてはならない。二人は険しい道を黙々と上がってゆく。この場面が迫真的だ。
楢山の頂上に立つと、そこには白骨が累々とあった。黒いカラスが飛び交う禿げ山だ。おりんを下ろして辰平は山を下る。気が付くと雪が舞っている。辰平はあわてて元来た道をもどり、凝然と粗むしろに座して手を合わせるおりんに向かって叫ぶ。「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がよかったなあ」
楢山節の一節、
塩屋のおとりさん 運がよい
山へ行く日にゃ 雪が降る
この作品は木下恵介の手で一度映画化されている。配役は田中絹代と高橋貞二だった。イマヘイ版は坂本スミ子と緒方拳である。前作を見ていないからたしかなこととはいえないが、緒方はよかった。さすが「復讐するは我にあり」でイマヘイといい仕事をしただけのことはある。監督の厳しい要求にこたえたことが山岳シーンの画面からも分かる。
抜歯してまで撮影に臨んだ坂本の熱演は分かるが、いかんせん実年齢が若すぎる。老婆の皮膚になっていないのが終始気になるのだ。姥捨てされるような弱弱しさが微塵もないのが憾みだ。その点は田中絹代のほうが合っていたのではないだろうか。
しかし、ラストの山に置き去りにされた老婆に雪が舞うシーンは圧巻だ。このときの坂本の凄みに感動した。この場面をロングショットで捉えたショットは脳裏に焼きついた。イマヘイはこれをやりたかったのだと、納得した。
この「道行」というか楢山まいりには濃厚なメッセージを感じるが、それ以外の農山村の日常の描き方はいささかステロタイプだと思った。
言葉が気になる。いわゆる田舎弁になっているのだが、はたして現地はそうなのか。この百姓言葉は生活感が薄いのだ。新劇の俳優が演じる農民という臭さが匂ってしかたない。
左とん平のやっこはまるで「ハレンチ学園」ののりだ。蓬髪髭もじゃはいま少し工夫が必要だと思う。やっこという差別の対象であるゆえ余計そう感じるのだ。辰平の嫁を演じるアキ竹城はいい。日本のおっかあだ。若ければ吉村実子が演じたであろう。
どうにも食えないのが殿山泰司だ。時代劇だろうが現代劇だろうが芝居はいつも同じ。だがその存在が得も言われない。清川虹子もいい。この人と浪花千栄子は一度腰を据えて調べる必要があるとしみじみ思った。
車谷長吉を読んでいたら、深沢七郎と会ったときのことを書いていた。そのとき、ギターを伴奏にして例の楢山節を歌ってくれたそうだ。その歌は古いものでなく深沢自身の作詞作曲とあったが本当だろうか。
とすれば、この人物はとんでもない「クワセモノ」。現代人の柔な感覚では圧倒されるに決まっている。
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