半島の舞姫とともに
大伴昌司は1歳半のとき、父母とともにメキシコへ渡った。父四至本八郎は、日本とメキシコの通商を促進する役割をになうよう商工省から派遣されたのだ。父の本当の目的は、メキシコの石油確保ではないだろうか。近衛文麿のブレーンでもあった四至本八郎は、アメリカからの石油ストップなどに備えてのメキシコ油田の開発にあったと思われる。
在米生活の長かった父にとって、外地での活動はお手の物であった。昼間はメキシコ政府との交渉にあたり、夜は夫婦そろって晩餐会や日本からの客の接待に追われた。
いつも、大伴は一人で留守番することとなる。母アイの推測では、この頃から一人遊びを覚え、本を読んだり絵を描いたりするのに没頭するようになった。
メキシコの日本人社会の中では四至本夫妻は有名であった。日本からの客もよく訪ねてきたし、一家もよく歓待した。来ると、八郎は自分で車を運転してアステカのピラミッドへ案内した。助手席にはいつも豊治少年が座った。
ピラミッドの遺跡に行くと、決まって鳥の頭をした怪獣の石像へ豊治少年は走っていき、愉快そうに手で触ったり撫でたりするのだった。
あるとき、ニューヨークから客が来た。世界巡演をしている舞踊家、崔承喜と夫安漠である。石井漠門下として、当時花形のダンサーであった。カーネギーホールでの公演でも成功を収め、意気揚々と来墨してきたのだ。崔承喜はいたく四至本家が気に入った。メキシコではずっと四至本家に逗留する。
崔自身、豊治と同じ年頃の娘をもっていて、豊治のことをとりわけ可愛がった。四至本アイは一つだけ解せないことがあった。日本大使館や自分たちに世話を受けながら、崔が公演のタイトルに「コリアンダンサー(半島の舞姫)」と付けていることだ。当時、朝鮮は日本の植民地だからそう名乗るのが奇異に思えたのだ。
崔承喜という人は民族意識の強くもっていた。日本が軍国主義に歩むことになってもけっして朝鮮民族としての誇りを外さなかった。
そして、戦時中中国へ慰問に行って行方が分からなくなる。戦後、彼女は北朝鮮に亡命したことが明らかになった。この偉大なダンサーと大伴は戦争が勃発する前年に、メキシコで交差していた。
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四至本一家と崔夫妻
崔承喜と父八郎