通俗性、朝からワイドショー
朝からワイドショーは人の道を説く。一生懸命がんばったスケート選手らがかわいそうだ、スケート連盟の幹部は彼女たちの努力を食い物にしてきたと、ミノは憤慨する。アメリカトヨタのセクハラに関しては、自分の乱行を茶化しながら正当化する。
毎日のように起きる殺人事件の犯人の経歴や家庭、環境を上っ面をなでてしたり顔するオグラ。現場を踏みもしないでミステリー作家もどきの犯人心理を推理するワタナベ。今朝は平塚猟奇殺人事件。そのタイトルは「愛情が憎悪に変わるとき」。まるで週刊誌の中吊り広告のキャッチコピーだ。
おまけにコメンテーターと呼ばれる輩が、どういう専門性と根拠で言っているのかさだかならず、ほとんど床屋談義か風呂屋政談の状態でショーは進行してゆく。
このありさまはキャスターやゲストの問題だけではないはず。番組のプロデューサーやディレクターらの制作方針、構成によるところのほうが大きいだろう。
テレビは話題になってナンボ、視聴率をとってナンボの世界。数字が取れる話を集中豪雨的に繰り返すのは当然と、関係者は考えているのだろう。
この常套化した物語を、視聴者は飽きもせず見てきた。10年も20年も。ワイドショーを例にとっても何も昨年と変わったところはない。毎度、同じ手法で事件事故を語っている。同じことに繰り返し。
が、本当に変わっていないのだろうか。番組が、ではない。視聴者や時代は、ゆっくりと本当に目を凝らさないと分からないぐらいスピードで変わってきているのではないか。
茶の間の椅子に「縛り付けられた」主体性のない視聴者・・、というのは実像だろうか。
通俗性こそテレビと思って制作しているテレビ関係者だけが、そのイメージにしがみ付いているだけで、観客はとっくにテレビを見限っているのではないか。
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