映像の省略法
「よく出来ているよ」と内田勝さんに薦められて、梶原三兄弟を描いた映画「すてごろ」を見た。
「巨人の星」の原作者梶原一騎とその弟たちの話だ。次弟の真樹日佐夫を哀川翔が、梶原を奥田瑛二が演じている。
昭和20年代、のちの梶原一騎こと高森朝樹とその弟、高森真土(のちの真樹日佐夫)、高森日佐志は喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。
数年後、梶原は時代を牽引するようになる。「少年マガジン」編集長、牧野武朗一が現れる。
梶原は『巨人の星』で「少年マガジン」の発行部数を当時としては奇跡的な100万部にまで押し上げ、高森朝雄のネームで「あしたのジョー」を書くなど、時代を風靡する。
一方、兄の陰で弟は葛藤していた。やがて真樹日佐夫は寝る時間も惜しんで書き上げた作品『兇器』でオール読物新人賞を受賞する。兄弟揃って手に入れた成功、だが二人にはまだ試練が待ち受けていた…。
映画には寺田農のナレーションが入り、昭和11年から編年で物語が進む。ドキュメンタリーの様相を呈している。この辺を内田さんは評価しているのかな。その内田勝役を国村隼といううまい役者が演じていた。
挿話が多すぎて大きな物語がはっきり浮かび上がってこないというのが、この映画を見ての私の印象だ。映画的感興が薄いと思った。すてごろというタイトルどおり、喧嘩や格闘技の場面は専門家の目が効いていてさすがと思うが、語り口(ナラティブ)が梶原に向かうのか真樹に向かうのかが揺れたまま推移していくのが辛い。
状況を説明して観客に分からせようとしていることが、逆に映画的に作品を小さくしているのではないか。
まったく唐突だが、伊丹万作の映画を思い浮かべた。文に省略があるように、伊丹は映像の省略を試みていて、映画の完成度を高めているのだ。評論家今村太平も高く評価している。例えば、志賀直哉原作「赤西蛎太」を映画化したときも、いわゆる文芸映画を作る気はなく、視覚的イメージを簡潔に提示して印象明瞭な場面を作り上げていった。くどくどしく説明はしない。画で語らせ、全てを言わない。観客は画を断ち切られても尚、想像力は動いているので自分の中で「映像」をつないでゆくのだ。そこを具体的に画にしてしまうと、想像力がしぼみ、観客の内部の躍動感が衰えてゆく。すなわち、わくわくしない。
まったく劇映画というものは難しいものだ。
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