大伴昌司を考えるポイント①
大伴昌司という天空の彼方へ去った存在が、なぜ今また人々の関心を集めるのだろうか。
彼が作り出したビジュアルな活字文化というものが、現在全盛を迎えているばかりか、その「文化」が遠く海外にまで広まっているということが、最大の理由であろう。
昨年のニューヨークで開かれた日本のポップカルチャーの展覧会は耳目をあつめた。日本から発信されるマンガ、アニメの根っこのようなものがそこに集められていたからだ。
その一つが、大伴の怪獣図解だった。怪獣は日本だけのものではない。ハリウッドでもフランスのコミックでも以前からある。だが、その怪獣を解剖して怪獣の性能、機能、能力、設定を図解するという発想は世界のどこにもない。日本独特の発想であった。この透視図解はおそらく大伴を嚆矢とする。
大伴の仕事にはオリジナリティがないという人がいる。怪獣にしても姿形が作られた後に、彼が介入して由来、設定を作り上げていった。マガジンの巻頭図解は、月刊少年誌「ボーイズライフ」や戦前の「少年倶楽部」に原型があった。そうかもしれない。大伴は神田の古書街をほっつき歩いて、アメリカのパルプマガジンなどをよく漁っていたから、たえずアンテナをいろいろな方面に張り巡らしていたのだろう。そこから、彼のフィルターを通すと恐るべきビジョンが産み出されてくる。
小松左京は素粒子やバイオテクノロジーなど新しい「知」に敏感ですぐそういう話を仕入れてきて、SF作家仲間に披瀝吹聴するのが得意だった。だが話が生半可で理解しにくい。そこで他の作家たちは、わかったわかった、その説明は大伴さんのマガジンで図解してもらえればいいじゃないか、と揶揄したという。
大伴の図解に多く見られる地底都市、海底都市がある。半魚人への思いも深い。精神分析的かもしれないが、胎内回帰の傾向がある。
慶応普通部の頃、大船の洞窟探検には目を輝かせたと、同級生は語る。母の実家は宇都宮にあって、休みとなると一人で祖父母を訪ねた。母の妹美恵子が大谷石採石場のオーナー木滑清一に嫁いでいた。大伴はよく地下の砕石場へ潜って見学をしていた。
戦争中、母と大伴は駐日ビルマ大使ドクター テイ・モンとともに群馬県の八塩鉱泉に疎開していた。戦局が厳しくなった昭和20年8月、外交関係者は松代の大本営に入れという命令が下り準備をする。そのさなかに戦争が終わって、大伴は行くことがなかったが、後年あの地下の大本営で生活してみたかったことを、母にくりかえし語った。
このビルマ大使との2ヶ月にわたる疎開生活は豊治少年に大きな影響を与えた。大使はビルマ名門の生まれで、ケンブリッジ、オックスフォードに留学して、医学法学の博士を取得しているインテリだ。独立運動に加わり投獄されること数回。日本占領時代に大蔵大臣となり、その縁で日本へ特命全権大使として派遣されたのだ。
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