意地でもゴルフはやらない
子供の頃、芦屋の知人宅へつれて行かれたことがある。何でもそこの家の人たちは疎開してわが故郷敦賀へ来ていた。私の家の隣に住んでいた。そこの家のおばあさんが、生まれたばかりの私をよく可愛がってくれたそうだ。きつい姑だが、よその子にはあまいと近所でも評判だったそうだ。
戦争が終結して数年後一家は神戸、芦屋に帰って言った。その家の主は大手メーカーの重役だったのですぐに財をなしたようだ。
私が小学校へあがったとき、一度訪ねて行ったことがある。おばあさんは死去していたが一家はわが家族を歓迎してくれた。とりわけ、疎開当時に生まれた私を可愛がってくれた。それが嬉しかったことは私もよく覚えている。
その家を去るとき、玄関に立派なゴルフ道具があった。これは何かと私は尋ねた記憶がある。一家はニコニコ笑っていた。
帰り道、父が「いいか、ゴルフなんてものは大金持ちがやるものだ。わしらには関係ない。だがいつかそうなるとお前もたいしたもんだが」と話した。以来、ゴルフは金持ちの道楽と私の中にすりこまれた。
社会人になった70年代、ゴルフは大衆化した。会社の上司はもちろん同僚でもやっていた。私はなぜかやることに抵抗を感じた。そんな身分でもないだろうと、腰がひけた。
ゴルフの会員権の高額に不自然なものを感じた。そのうち、農薬を使っているため回りの自然が汚染されていることに憤りを感じるようになった。イギリスへ行ってセントアンドリュースを見たとき、そこの自然がまるでゴルフコースそのものだと知って、日本の不自然なコース化された大地は無用だと思うにいたった。
普通のサラリーマンはいざ知らず、われわれのようなジャーナリストでありながら自然破壊するようなスポーツを得意げにやるなんて、その人格を疑いたくなった。今でも、仕事中にゴルフの話題を口にしてフォームのしぐさまでするものがいる。しかも、そのことをたしなめると、ゴルフで人間関係が円滑になるとまで言う。つまり「なかよしクラブ」で、そこで仕事の話もするとか。
いかにも日本的なゴルフ談義だ。街角で傘をクラブ代わりに振る者を見ると、痛罵したくなる。次回は、こんな私がゴルフ夜明け前に関わった話をブログに書いてみよう。
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