永井龍男のカミナリ
永井龍男に叱られたことがある。
永井は文壇でもうるさ型であることは先刻承知はしていた。あの中野孝次ですら敬して遠ざかっているようなことをどこかで書いていた。あちこちで雷を落としているとは知ってはいた。
芥川賞100回目を迎えたとき、「時代の中の文学賞」という番組を制作したことがある。賞創設の頃の話を永井に聞いたのだ。永井は文藝春秋の社員だったことがある。菊池寛や佐々木茂索らの謦咳に接していた。
撮影の朝早く渋谷を出た。鎌倉雪ノ下の永井邸に着いたのは11時を少し回る頃だったと記憶する。着物姿も麗しい夫人が迎えてくれた。挨拶も早々に、インタビューする位置を決め照明のセッティングに入った。断りをひとこと永井に入れたほうがいいだろうと、私は家の奥まで踏み込んだ。
鏡台の前で先生は髪を整えていた。目があった。あっ、ヤバイ。うるさい「親父」だということを忘れていた。
「馬鹿者」(といわれたと私は思うのだが)
ここには来るな、表で待っていろというようなことを永井はびしびしと言った。
永井文学は日本語の美しさが知られている。名作『青梅雨』などは一字一字忽せにしない切れ味の素晴らしい作品だ。
この小説はわずか五十万円の返済ができず心中を決意し実行する3人の老いた男女を描いている。小説の最後の場面、登場人物が交わす話す会話は、漏れ続けている風呂のこと、擦り切れた洗い立ての浴衣こと。明るいといってもいいほどの華やぎを漂わせて物語は大団円に向かう。そして、たった二合だけの別れの酒を酌み交わしてゆくのだ。この律儀に死んでゆく者たちの上を糠雨が降り続く。――
小説の舞台は藤沢なので、梅雨の頃そこを通過するときいつも風景描写の見事さをあらためて実感することが多い。言葉を刻む人であった。「鎌倉文学館」の初代館長も務めたことも頷ける。永井の俳句も有名で文人俳句の域をとうに超えている。号は東門。
インタビューする場所へ現れた永井は何事もなかったかのように端座してきちんと持論を開陳した。
当時文学賞が乱立し、文芸誌の不振が話題になっていた。あるロック音楽評論家は「文学はもはやフェードアウトしてゆくメディアだ」とまで言っていた。それに対して永井は文学は不滅だということをしっかり言った。鎌倉文士面目躍如であった。
永井龍男は、平成2年10月12日、心筋梗塞で死去。
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