ウルトラ星に去った人⑧
昭和62年に、大伴昌司の番組をつくろうと私が考えたとき、そのタイトルで迷った。彼の仕事をどうまとめたらいいか見当がつかなかったのだ。「怪獣博士の死」とか「天才編集者の仕事」とかあれこれ探したものだ。
挙句、「少年誌ブームを作った男」とした。SF、ミステリー、CMなどの評論も手がけたが大伴の最大の仕事はやはり少年マガジンの巻頭図解だと、私は解釈した。
彼が関わった1968年当時で少年マガジンは150万部の発行部数をほこる。早大では「手には(朝日)ジャーナル、心に(少年)マガジン」とうたわれた。読者は少年だけでなく大学生にまで広がり社会現象化していた。立花隆は少年マガジンは現代最高の総合雑誌か、とまで書いた。総合の意味はマンガだけでなく大伴が担当した図解のことを指しているとみてまちがいない。大伴の仕事は時代を画したのである。
少年誌を少年マガジンは大きく変えたのだが、それ以前の少年誌でどうであったか、ここで少し概括しておくことにする。
それまでの少年誌は月刊だった。『ぼくら』『少年』『少年クラブ』『冒険王』『少年画報』が
毎月初めになると書店の店頭にまぶしく並んでいた。
人気のあった赤胴鈴之助やサイコロコロ助は『少年画報』にはいっていた。ここは低学年向けのマンガが並んでいた。やや大人に見えたのが『少年』だ。鉄腕アトムや鉄人28号といった未来マンガが人気を集めた。こういった人気マンガは別冊付録になっていた。10大付録とかいって分厚い少年誌は私の宝物だった。当時私が好きだったマンガ家は高野よしてる、貝塚ひろしら柔道マンガや野球マンガのうまい人たちだった。
そのうち『ボーイズライフ』という都会的センスの少年誌が登場した。ここではマンガだけでなく図解や小説、物語、ルポルタージュのような文芸も掲載された。スパイ特集や世界の拳銃シリーズなどが組まれ、その写真や図解にこれまでの少年誌と違うにおいがしていた。価格も他の雑誌に比して高かった。実は、ここで大伴はいくつか記事を書いているのだが、それはまた別の箇所で検討しよう。
この頃最大のヒットしたマンガは「月光仮面」。『少年クラブ』に連載が始まるとあっという間に子供たちの心を掴んだ。探偵祝五郎は月光仮面に姿を変えて悪漢サタンの爪とその一派と闘う物語だ。原作川内康範、画桑田次郎。
やがて、このマンガはテレビ化されるとさらに人気が高まる。主人公の祝五郎は大瀬康一が演じた。さっそうとしてサタンの爪と闘うのであった。日曜夜の放映が楽しみだった。まだ我が家にはテレビはなく友達の家やうどん屋を転々とした。だからときどき続きを見ることができない事情も生ずる。欲求不満だった。
そして、東映で映画化されることになった。主役は大村文武。東映全盛期の頃だ。映画が掛かると必ず見に行った。マフラーをなびかせスーパーカブに乗った月光仮面が登場すると主題歌が流れた。会場のこどもたちは合唱した。私も大きな声で歌った。
今でも、主題歌を空で歌うことができる。
♪ どこの誰だか知らないけれど 誰もがみんな知っている
月光仮面のおじさんは 正義の味方だ よい人だ
疾風のように現れて 疾風のように去って行く
月光仮面は誰でしょう 月光仮面は誰でしょう
月光仮面の画をいつも“下敷き”に描いていた。桑田次郎の画が好きだった。スマートでスピード感があったのだ。この桑田は後に少年マガジンであの大ヒット作「8マン」を描くことになるのだ。このブームの終りごろの昭和34年春、少年マガジン、少年サンデーとう少年週刊誌が創刊される。新しい時代が到来してくる。
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