トラヴァイユ--仕事
詩人リルケはロダンに会う為にパリへ出た。
ロダンは仕事をする。それをかりたてるものは〈生命〉だ。万物の中に遍在し万物に〈歓喜〉を与えるものとしての生命。その生命を、ロダンは彫刻で表していた。これがロダンの仕事。ロダンは口癖のようにトラヴァイユ(仕事する)と言っていた。
ロダン論を書いたリルケも仕事をした。その仕事とは、辻邦生によれば、
《リルケはロダンのようにたえず目に見える形では仕事したわけではない。彼の場合は、仕事をするとは、夢想することであり、手紙を書くことであり、公園を散歩することであり、旅することであり、図書館で読書に沈潜することであった。》
そして仕事をしてゆく人間、芸術家とは、時間は関係ない、測定することは意味を持たない。樹木のように、春の嵐の中で夏は来ないのではと不安がらずに、落ち着いて樹液を送る樹木のようになることと、リルケは語る。
大江健三郎さんもよくトラヴァイユという言葉を使う。そのときのルビは労作とする。そのようなものとしての仕事、と大江さんは考えている。
では自分に引き付けて仕事というものを考えてみる。むろん、芸術家のように純一であることは望むべくもないが、私らのようなものでも樹木のような「トラヴァイユ」を為すということはないのだろうか。
日々に追われ、人気を気にするような企画、素材、でしかないような仕事。それを作り続けてきた人生を、どう束ねればいいのだろうか。(結論は分っているくせに)
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