高木護さんの旅
早死にした高田渡がタカギマモルさんの詩を歌っていると聞いた。タカギさんは旅することともに生きてきた人だ。いっさいから自由な人だ。
「夜の唄」
生まれはどこかいと問われたら
あたい
──いけない女 とこたえるかい
夜の灯に
しらみのようにたかって生きる
女よ
──あたい 天使になれなかったの と
こたえるかい
信じては
いつも失望ばかりしている
女の股ぐらから
ふるさとのような夕陽が見えるのはなぜかい
それでも
女のお尻が夜の灯を恋しがるのは
なぜかい
女の股ぐらから見える夕陽などという表現はタカギさんでなければできないものだ。1989年に、タカギさんと九州を旅したことがある。かつてタカギさんが放浪した後を再訪したのだ。鹿児島、霧島山中、筑豊の炭住、山鹿の生家、人吉の風呂屋、ただ一緒に歩いて話を聞いただけの番組だ。電車とバスと車を乗り継いでの旅だが面白かった。
高木護。仕事、放浪人。時には偽絵描き,神農札売り、偽坊主、物乞い。少年の頃、発破にふれて怪我をし障害ができてから、各地を放浪するようになった。戦後の高度成長する直前の草深い田舎を歩いたのだ。その体験をエッセーに書き詩に描いた。
「物乞いのコツはですね。村に足を踏み入れたとき、家のたたずまいでやさしそうな家というのが分るとですよ」と人懐こい笑顔で高木さんは私に教えてくれた。
梅雨の頃、高木さんは宮崎の海岸を歩いていた。何日も風呂に入っていなかった。雨が降り出した。傘もなく濡れていた高木さんは服を脱いでスッポンポンになった。
「海につかったとですよ。どうせ濡れるならと思うて。じっとしとりました。」
そこへ女性が2,3人やってきて浜アソビを始めた。
「出るに出られんかった。」
高木さんは海に身を沈めて雨に濡れている。梅雨だからまだ水は冷たい。でも首だけ出してじっと浜を見ている。
まるで、つげ義春の世界だ。
そのロケの終盤、筑豊へ行った。ボタ山があるだけで、炭鉱住宅(炭住)はほとんど空家となっていた。高木さんが放浪した頃はまだ半数は住んでいたそうだ。それでも空家が数軒あり、高木さんはよく入り込んで宿としたそうだ。そのエピソードについてインタビューすると、ひょいと高木さんは身を翻し、鍵(といってもたいしたことがないが)をはずして炭住にするすると入っていった。中から私を呼ぶ。
「ここは、ぬくいですよ。雨もあたらんし上出来ですたい。」いかにも居心地よさそうに破れ畳の上に寝転がっていた。
このロケで私もトチ狂ったようだ。山鹿市で高木さんと別れた後、技術スタッフにも私は別れを告げた。スタッフはすぐ東京へ帰るが、私は2日ほど休暇をとることにした。そのままフラリと大分や山口のほうへ足を向けた。泊まるあてもなく、所持金もなく、フラフラと歩いた。この時の記憶が甦らない。たしかにバスに乗って終点まで行って下ろされた、ことは覚えているがそれ以上まったく分らない。
ムフ、放浪癖は伝染するぞ。
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