中野鈴子のこと
郷土の作家中野重治。戦前の暗い谷間の時代、彼は吹きすさぶ嵐に抗しつづけた人だ。その小説も詩も短歌もいい。その人生を私は尊敬している
だが、この人のことは別の機会に語ろう。彼の妹である中野鈴子について語りたい。鈴子は明治39年に福井県の高椋村一本田に生まれた。17歳の春から翌年春まで、金沢市で金沢第四高等学校に進学した重治の下宿に住み、兄の世話をし、深い影響を受けた女性だ。
その後、二度結婚したが、彼女の意に添わず実家に戻っている。
鈴子は上京してプロレタリア運動に参加した。活動でとくにめざましかったのは、雑誌『働く婦人』の編集と発行に精力的にとり組んだことだ。そのために凶暴な弾圧にも遭遇する。――そして、結核にかかった。病と闘いながら詩を書きつづけた。
戦後、彼女が中心となって同人誌『ゆきのした』が生まれた。
私は高校1年のとき『ゆきのした』を手にした。ガリ版刷りの粗末な同人誌のそれに掲載された鈴子の詩、題名は「花も私を知らない」だった。ゆきのしたといい花も私をしらないといい、いかにも雪の多い北陸にふさわしい言葉づかいだと、私は思った。
私は鈴子の苦難の人生を想像するだけだが、それに重なるような人生をいくつも聞き見た。
親友が私に打ち明けた18歳で嫁いだ従姉妹の話。彼女は自分の好きな人と一緒になるなんて夢でしかないと言って泣いたそうだ。友人は鎮痛な面持ちで語っていた。私の両親が仲人した女性が婚家を去らされたとき、母に夫の不実を訴え嘆くのを、私は隣室で聞いた。女は無理難題を押し付けられ忍従を強いられる時代だった。
「花も私をしらない」という題が深く心に残った。この記事を書くので鈴子の詩集を探したが、今手元にはなく詩を全編紹介できないのが残念な気がする。
偏見の激しい農村にあって、病んだ体で必死で生活や因習と闘い、詩を書きつづけた中野鈴子のことをもっと世に知らせたいという思いがしきり。
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