弟の死
私は3人兄弟。私が一番上で68歳、真ん中が次男で65歳。一番下が60 歳。男ばかりの兄弟3人で育った。年に一度やって来る富山の薬屋が、我が家に荷をほどいたとき、会計を終えると、母に「男の子ばかりで楽しみですね」とお追従を言った。母も満更でないらしく、嬉しそうな顔になっていたのを覚えている。
3人の仲で一番勉強が出来て、いつもクラス委員に選出されていた優等生は、次男。性格は温厚にしてだれにも優しい。カンが強く誰にでもすぐ噛み付く長男の私と真逆の温順な性格の持ち主だった。小学4年生の運動会には学校を代表する鼓笛隊の隊長にも選ばれるほど、先生たちも弟の「実力」とひととなりを認めていた。でも、その当時弟は陰湿な苛めを受けていた(らしい)。私は現認していないが、亡くなった母が私と2人だけの昔話のなかで、悲しそうに語ったことを思い出す。おそらく悪ガキが優等生の弟を妬んでいじめに走ったのではないかと推測するが、当時中学生になって自分専用の自転車を買ってもらって有頂天だった私は、弟のそんな苦しみには気づいていない。
弟は一浪した。最初の受験で失敗したあと、京都の難関の予備校を受験し合格した。そこに受かれば京大も夢じゃないという名門だ。其の前に受けた地方国立大学工学部よりよほどレベルの高い予備校に入ったものの、どうやら勉強はそっちのけで京都や大津の文化を楽しんでいたらしい。
その最初の受験のとき、弟に付き添ったのは亡母だ。大津で生まれ育った母は京都に土地勘があったから、弟を連れて同志社のキャンパスなどへも足を伸ばした。その頃の思い出を、母は短歌にしている。
如月の風も冷たき京の町 受験子連れて五条坂行きし 美代子
やがて故郷の北陸の国立大学に進み、弟はあくせくもせず大阪堺の自転車部品メーカーへ就職する。そのあたりから私と弟の交流はほとんどなくなった。両親を通して、彼がシンガポールへ転勤したこと、仕事も自転車部品でなく、釣りのリールの設計が専門になったことなどを、うっすら知るのみとなった。
現役退職したのも私より早かった。定年前の引退だったかな。50代後半になると、弟は体調に異変を感じるようになっていた。2010年に敦賀で一人暮らしをしていた母が死去するが、その前から弟は健康に不安を感じるようになった。
それでも、母がいなくなった敦賀の実家に一人住んで、漬け物を作るような自適の生活を送るようになった。弟はまったく野心も計画も名声も望むことなどなかった。淡々と、与えられた命を大事に慈しみながら生き、本日平成28年3月14日、午前11時50分昇天した。
彼のいまわのとき、後でたしかめたが、私は目黒の山手線の外回りのホームにいた。耳朶に突然メロディが流れた。「主よみもとに近づかん」の賛美歌が聞こえたのだ。家人たちは笑うが、目黒駅のホームに立つ私にはたしかに聞こえた・・・。
明日、弟の葬儀に立ち会うべく、朝9時過ぎに家を出て、品川から新幹線に乗り、大阪南西部を目指す。ヨチロー、いいか待っていろよ。にいちゃんが駆けつけるからな。