冬至の夜に
今夜は冷えている。マンション4階は暖房要らずで快適なのだが、今夜はそういうわけにいかない。しんしんと冷え込んでいる。
12月22日、冬至にして母の命日。神妙にこの日を受け止めていたいと思うが。
昨日の土曜日、目黒碑文谷の福田さんの家を訪ねた。7年前に急死した作曲家福田和禾子さんのお宅だ。
私は30年前に、学校放送音楽番組の「ワンツーどん」からテレビ番組に関わることになった。そのときの音楽監督が福田さんだった。後にNHK「みんなの歌」で、「北風小僧の寒太郎」で大ヒットを福田さんは飛ばすことになるのだが。
姉御肌のさばさばした出来る女性だったが、とにかくメカの好きな人で、とりわけ車には目がなく、いつも最新のスポーツカーを駆って放送センターにさっそうと現れたものだ。タフで徹夜が続いても弱音など吐かない人だったが、ある夜あっという間に急死した。7年前のことだ。
亡くなる直前に西口玄関で会ったときのことだ。「福田さん。そろそろお父さんの遺品などを見せてください」と私は福田さんに呼びかけたことがある。福田さんの父上は、戦前から戦後にかけて流行歌手として、一世を風靡した松平晃氏である。「サーカスの唄」「花言葉の歌」など名曲を持ち歌としていた。この人は東京芸大出身のインテリ歌手だったこともあって、蓄音機、映写機、録音機材など最新のメディア機器にめっぽう強く、自ら機器を駆使してさまざまなものを記録していたという噂を、私はものの本を通して知っていた。だから、長女である福田さんに父上の遺品を見せてほしいとリクエストしたのだ。
シャイな福田さんは父上の華やかな経歴などに言及することはほとんどなく、私の要望になかなか応えてくれなかったが、その急死した年の出会いのときは、「いいわよ。そのうち父のコレクションを一同に集めておくから」と嬉しい答えをくれたものだ。松平晃の伝説を若干勉強して、その多彩な人生に関心をもっていた私としては、遺品、記録に遭遇できると知っておおいに喜んだ。
ところが、それから数日も経たないうちに福田さんは急死した。その見せていただける予定であった亡父の遺品のことなどを相談する人もなく、この話は立ち消えになった。この件について、私は諦めていた。
1週間ほど前のことである。「ワンツーどん」の先輩ディレクターであったYさんから、福田和禾子さんのコレクションについて相談を受けた。福田さんが残した品物のなかに、戦前の松平晃が残した記録が多数あるのだが、その処分をどうしたらいいかと福田さんの長男匠さんからYさんに相談があったというのだ。
驚いた。7年前に私が提出したリクエストに福田さんはちゃんと応えて、品物を揃えておいてくれたのだ。
これは検分しないわけにはいかない。すぐに調査をしたいという旨を、匠さん側に伝え、昨夜の4時間におよぶ調査となったのだ。
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