車輪の一歩
プロデュ―サーになりたての頃だった。世の中に障害者はそれほど進出していなかった。どちらかというと、障害をもっている人たちは家にひきこもっていた。
山田太一のドラマが評判になっていた。そのなかに「男たちの旅路」という土曜ドラマがあった。鶴田浩二、水谷豊たちが出演したガードマンのドラマだ。「車輪の一歩」という今思い出しても心が震えるようなドラマがあった。
車椅子に乗った6人の若者。彼らは車椅子を使用しながら、なんとか社会に参加したいと願っていた。といっても世間はなかなか彼らのことを理解してくれない。
あるとき、メンバーのひとりが車椅子の少女と文通をしていて、その娘が家にひきこもっている事実を知る。幼い頃に脊髄を損傷したため車椅子生活となっている少女。母と二人だけの暮らしをしている・・・その母は娘にきびしく外出を禁じている。6人の若者たちはなんとか外に引っ張り出したいと計画を練った。
ある日、母の留守の間に、その少女を近くの公園にまで引っ張り出すことに成功した。若者たちははしゃぐ――連れ出された少女も最初はとまどっていたが、次第に解放された時間を満喫する。彼女も新しい世界への期待が膨らみはじめた。心ときめかした。
その帰り道のことだ。電車の踏み切りを渡っているとき、少女の車椅子が線路の轍に落ちた。身動きがとれない。若者たちも引っ張り出そうとするがうまくいかない。やがて、電車が接近して来た。6人の若者も車椅子のため、なかなか救出できない。あわやというとき、通りかかったタクシーの運転者が現れて、少女は無事に救い出される。
少女は蒼ざめた。そればかりか、恐怖のため失禁する。ついに、少女は泣き出した。6人の車椅子の若者たちは、若者が6人もそろっていながら何もできなかった自分たちの境涯を思い知らされ、不甲斐なさにうちのめされる。このシーンの演出が見事だった。
ドラマと分かっていても、心を揺さぶられた。この「車輪の一歩」が私のテレビ人生に大きな影響を与えた一本であった。このドラマの演出は、中村克史という気鋭のディレクターだった。その名前はしっかり私の脳裏に刻まれた。
それから数年後、アメリカからニュースが飛び込んで来た。障害者法というのが成立したという。障害は障害者自身にあるのでなく、生きづらくさせている社会に障害があるのだ、そういう社会こそ改善させなくてはならない、という思想からその障害者法というものが生まれたという。福祉関係者にとっては大きなパラダイムの転換だ。福祉番組の責任者になっていた私は、そのニュースには多大な関心をよせた。
当時、NHKスペシャルの年間計画に、12月1日を「障害者の日」として編成されることがあった。そこで、私はアメリカの実情を知らせる現地リポートを提案し、作った。車椅子の人が行動するために、社会が支援協力することは当然――山田太一ドラマの先を行くような事実や出来事がいくつも報告された。山田太一ドラマの物語は、日本社会の変化を予見するような作品だったのだ。
母は晩年短歌に精を出した。NHK短歌にもせっせと投稿した。ときどき佳作入選などになると、事務局から美しい短冊が届いた。そこには当該の短歌が刻まれており、主催者の理事長の名前があった。中村克史とあった。あのときのドラマディレクターである。
母が亡くなったあと、中村さんに年賀状で母が「NHK短歌」への投稿を楽しみにしていたこと、生きる励みになったと書いて、感謝を伝えた。
しばらくして、中村さんから小包が届いた。開けると、母の入選した短歌が載った「NHK短歌」のバックナンバーがあった。
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