いまだ名をなさず
湯豆腐に酔ひゐていまだ名をなさず
歳時記を眺めていたら、歳晩の句のなかに見つけた。
なさないほうが気楽でいいぞと、名もなき俳人に伝えたいようなそうでないような。
わが先輩は、先ごろ自伝を出版した。仲間内では文才のあることは知られていたが、能ある何とかのひそみにならってめったに表に出てくるようなことはなかった。奥ゆかしいがもったいない気もした。
だが、世の中には慧眼の士もいるもので、この人の才能を見抜いて、怠け者のお尻を叩いて今夏かけて執筆させた編集者がいた。バジリコ出版という。その名前を聞いたとき、なんだスパゲッティみたいな名前だななんてことを私は失言してしまった。言われたほうは内心面白くなかったようだ。その後も、会うたびにその話題から始まる。
会うたびにというのは、いきつけのゴールデン街とんぼのことだ。その人はとんぼの常連なのだ。通ううちに、わが先輩の才能に気づいて執筆をすすめた。『ぼくのNHK物語』というノンフィクション。面白い。少なくとも私の周りではベストセラー。NHK内書店では店頭に並べても数時間で売り切れて、4回も平積みにし直したと、店長が私に教えてくれた。
もう一人敬愛している先輩から電話が入った。先週日曜日に行われた句会に欠席したのでどうしたのかという。この年齢になると、欠席の理由もサボることより病気の心配をされるらしい。有り難いことではある。当人は前立腺がんを数年患っているのだが、声音はいたって元気だ。せっかく出会った句会だから大事にしろよと心のこもった励まし。
映画好きのその先輩にヘルツォーク監督のことを聞いたら、話がとまらなくなった。それから5分ほどドイツ映画の巨匠についての独演会となった。長い電話が苦手な私としては切りたいのだが、話のネタを振ったのは当方だからそういうわけにもいかない。ただ、独演の終わりのほうで話が混乱して、別ネタの話題と混同しはじめたのは、いささかぎょっとした。まさかと思うが、明晰な先輩にしては珍しい。この先輩はNHK屈指のロッカーだった。ロックのNHK特集を制作して、歴代2位の最低視聴率をたたき出すという偉業をなした。
そのロッカーが変身して、今では俳句の達人。猫好きで俳号も猫翁(ねこおう)と名乗っている。互いにガンを患っているので、会うと「具合はどう」と聞くことにしている。今回の電話でも様子を聞いたら、来年2月にでも群馬の秘湯にもう一人の癌患者といっしょに行こうという。どうやら、その人と猫翁さんは「つげよしはる」ごっこをやると決めていたらしい。その温泉場はガンの湯治が多い。といっても数人しか入れない鉱泉のようだが。
その同行する御仁もめでたく今秋喉頭がんとなり、手術を終えたばかりという。「おいでよ、3人の癌が並んで、温泉場で景気の悪い句会でもやろうよ。酒ありタバコありの何の禁忌もないフリー句会」猫翁さんの声にはりが出ている。
鉱泉に行ってみようかな。小暗い温泉場で、つららでも眺めながら景気の悪い俳句でもひねる風景。悪くはない。
だが2月第2週は穂高へ半登山することになっている。そのスケジュールと重ならなければいいのだが。
木枯らしにこころさすらふ湯呑かな
これも歳時記で見つけた句。やや通俗だが、なんとなくこんな心境になった。
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