空に吸はれし十五のこころ
今朝も内部被爆の特集をやっていた。低線量の被爆実態が掴めない、人体内部に入った放射性物質の影響も確たるものがないと、専門家はいう。別の専門家はその正反対の意見を言う。2つの立場に分裂しているから、一般大衆はどう信じていいか分からず不安のみ大きくなっている。人工放射線による汚染は、深刻な問題を引き起こしたばかりか、これまでの風景を大きく変えた。
故郷の町も五十年前とはすっかり変わった。当時は敦賀半島には原発もなく、かもしかが生息していて、人跡も稀な地域がいくつもあった。半島の根元の花城(はなじり)には湿地帯があって、もうせん苔という捕虫花の一種も自生していた。そのあたりにはかつて山城があったと伝わっていたが、私が高校生になった昭和38年当時は墓地と荒地しかなかった。薄気味悪い一画であったが、人がほとんどやって来ないから学校をさぼったときには好都合だった。放課後、そこへ行って寝ころんで空の雲をぼんやり眺めることがよくあった。
受験勉強の数学のことで悩んでいた。大嫌いな数学を無理やりやらされたのは担任が数学の教師だったからだ。彼の持論は数学が出来れば国立大学への入学は難しくないからまずそれを達成することだと、他の科目など無視して数学のテストばかりしていた。
4月に入学して数Ⅰから始まったが、のっけから文字式の計算で躓いた。なぜ具体的な3とか4が使用されずAとかBに置き換わるのか納得できないまま授業は進み、次の単元からまったく分からなくなった。社会科は私の好きな歴史ではなく地理だったし、国語は苦手な漢文だった。理科は生物科目でミトコンドリアなどにはまったく興味を持たなかった。学校が面白くなかった。家に帰っても勉強しろと親から言われるから帰りたくなかった。
下校時刻になると、自宅とは反対方向に自転車を走らせ花城に一人で行った。誰も来ない墓石の陰で寝転んで空を眺めた。ぼんやりしていると、ときどきアベック(死語だ。今ならカップル)が入り込んで来てキスしていた。どきどきしながら見て、帰ってしまうとそんなことをやっている自分が空しかった。一日が長く感じられた。少しも時間が経たなかった。
花城と川を挟んで気比の松原が広がり大きな公園になっていた。
松原公園のなかに檻があって、そこに捕獲されたかもしかが一頭だけいた。狭い檻のなかをゆるゆる歩きまわっていた。獣は強烈な臭いを放っていた。ぼさぼさの毛が瞼まで垂れ下がり、その下の黒々とした瞳が何か言いたげであった。無性にいじめたい気分になり、そこらにあった松の枝を檻のなかに突っ込んでかもしかの腹を突っついた。かもしかは悲しげな声をあげた。
檻のそばに句碑があった。
松原のつづくかぎりの秋の晴
とあって高浜虚子と名前が刻んであった。馬鹿みたいな句だと思った。何の変哲も工夫も風雅も感じられない。見たままを読んだだけじゃないか。なぜ、こんな句が麗々しく石碑になっているのか分からず、恭しく処遇する市の文化課を軽侮した。
砂浜に腰を下ろして、沖合を眺めた。群青色の日本海が広がり、そのうえに北陸特有の薄曇りの空があった。流行っていた「最果ての慕情」を口ずさんだ。
破れた恋はどこへ行くの 最果ての岬
破れた愛はどこへ行くの 最果ての慕情
最果てという言葉に惹かれた。自分が今居るこの地は最果てなのだと信じ込み、そこに流された自分が哀れだと思えてならなかった。啄木の歌はまだ知らない。
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