父のこと
1993年春に田舎の父が倒れ、9月に死んだ。当時、私は広島に単身赴任していたので、家族のいる東京と父母が住む敦賀と、広島の3か所をぐるぐる回っていた。といっても敦賀へ父を見舞いに行くことは、他の兄弟たちに比べると少なかった。おそらく一生のなかでもっとも多忙な時期を私はむかえていた。中国地方の放送局の番組を統括する立場にあったから、広島だけでなく山陰山陽を飛び回っていた。
父の死去したあと、私が忙しさにかまけて父の最期をよく看取らなかったと責められた。だが、あのとき離れた地で仕事をする、人生で最も多忙な私にどうやって看護することができたであろうか。父が死んだとき悲しみはすぐに湧いてこなかったが、残された母のことだけが気になった。
父は癇癪持ちだったから幼い頃はよくひっぱたかれた。封建的で圭角の多い父には、思春期に数回苦い思いを味わされてきた。一度は義絶をはかったこともある。仲がよかったわけでもないが、かといって勘当が長く続いてもいいとも思ってはいなかった。憎たらしいと思う気持ちと苦労してきてねじくれた根性になっている父への同情が複雑に絡み合っていた。父の家族思い子供思いは分かってはいたが、その過剰が鬱陶しいと思うほうが先にたった。
家に風呂などなく、町内の銭湯に通っていた頃のことだ。幼稚園へ入学したときだったと思う。珍しく父と風呂屋へ行った。頭を洗ってもらった。せっかちな父は石鹸でごしごし洗ったあと、冷水をざあざあかけた。左耳に水が入った。そのことを父に告げた。
父の顔色が変わった。立てと怒鳴った。
右足をあげて体を左に傾けて、とんとんと跳べと言った。回りにいた近所の知り合いや悪童たちが父の大きな声に、好奇のまなざしを私に向けてくる。赤面した。
下を俯いた私に、父は苛立ってさらに大きな声を出した。
「早くしろ。水を出さんといかん」
私はますます頑なになって、黙って唇を噛んだ。突っ立っていた。
父は私の手を引いて、風呂場から脱衣場へ出た。そこでもう一度同じことを命じた。
「右足を上げて、とんとんと跳べ。早くしろ」
私は口をへの字にして足元をみつめているばかり。父のゲンコツが飛んでくるかもと緊張した。が、それはなかった。
見上げると、心配そうな父の顔があった。
「じゃ勝手にしろ。」父は不機嫌そうに言った。
そのあと、家に帰ってどうしたかはっきりしない。ただ、父が母にあいつは頑固な奴だとこぼしていたことを覚えている。
それから、私は中耳炎を患うことになる。小学校3年生ぐらいまで3年間にわたって病院へ通う。
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