球形の原子野
ノーベル賞を受賞した野依氏は現在理化学研究所の所長であるということを、昨夜のNC9で知った。理化学研究所といえば仁科芳雄博士が設立した日本を代表する科学研究所だ。つまり科学者の牙城というべき場であろう。その長として野依氏は、高まる科学技術批判に対して、科学の側の弁明を陳述するということで、昨夜のニュースショーに出演したようだ。
氏は科学と技術を分けて考えてほしいと要望した。そのうえで、それでも今回の原発事故については科学の敗北であることを認めざるをえなかった。
原子力の将来については、最終的になくす方向ではあるが、諸般のことを考慮して市民の意志決定に従うべきだとしたうえで、それまでのツナギとして原子力を利用することになるだろうという見通しを持っていた。
これだけ深刻なダメージを目の前にしながら、やはりすぐに廃絶という考えにならないことに、現代のシステムの巨大さと意志決定の困難さを思い知らされた。
科学者という種族はそういうモノの見方をするものなのだろうか。
実は、1990年、急死する直前のサハロフ博士に話を聴いたときも、同じ考えであった。
サハロフがヒロシマへやって来たとき、作家の大江さんとヒロシマ、原水爆、チェルノブイリについて対話することになった。原爆ドームが見えるビルの一室で、原爆、水爆そしてまだ生々しかったチェルノブイリ事故について意見を交わしたのだ。
ソ連、水爆の父といわれるサハロフが、原爆資料館を見学してその悲惨に対して哀悼を口にしたが、ソ連の水爆を開発したことは間違っていないと主張し、チェルノブイリは不幸だが原子力利用はやめるわけにいかないと語った。この発言は意外だった。
チェルノブイリの事故が発生して数日後に取材に入った、プラウダの科学記者グーバレフに話を聴いたときもそうだった。
彼は、科学知識も豊富だが、一方文才もあって、チェルノブイリ事件を「石棺」という演劇にもしていた。その彼ですら、事故は悲惨だが、原子力の平和利用はやめることはできないと語った。
年々高まるエネルギー需要、人口爆発に対して、化石燃料に代わるクリーンで大きなエネルギーは原子力しかないという言説。だが、そのメインテナンスにかかる経費、一旦事故が発生したときの費用などを考えると、とても割のあうものでないということは、今回、いろいろなところから聞く。そんな不経済にして不安定なエネルギーをいつまであてにするのだろうか。
ことは日本一国でとどまらない。地球規模で今問われている。
さきほどのニュースで福島沖に流れ出た放射性物質は、今年の暮れにはアメリカ西海岸に到達するだろうと報じていた。原発の事故、破損は国という枠組みをとっくに越えている。ある国の危機はそのまま地球の危機に直結する時代に入ったのだ。この国に不安を覚えて帰国したという外国人がかなりたくさんいるとか。だが、無意味である。どこへ逃げても危機は変わらない。
松本清張に「球形の荒野」という小説があった。ある亡命者が世界中を逃げ回るという比喩として「球形の荒野」という言葉が用いられていた。地球という球形はすべて彼にとって荒野だという意味。
これに倣えば、今まさに地球はすべて原子野(アトミックフィールド)と化したといって過言ではあるまい。「球形の原子野」だ。
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