神秘の人びと
家の書棚をのぞいていたら、1996年発行の『神秘の人びと』という古井由吉の小説を見つけた。買ってはみたものの頭だけ読んで放っておいた本だ。古井という作家は難解だがなにか気になるところがあって、新刊が出る都度購入だけはしている。
今回、読んでみて分かったのは、この小説を書いたとき、古井は大病を患ったばかりだったのだ。闘病四ヵ月というから、かなり篤いものだったのだろう。当人も死ぬか生きるかの病と記している。その回復期に書かれたという文章は、今の私にとって親しい。つい、夜が更けるのも忘れて読んだ。
神秘思想というのは気になる。この小説の中心には13世紀のドイツの宗教思想家エックハルトの説教をめぐる言説というか、この言説をめぐる筆者の思いのようなものだ。
こんな話がある。ある修道士が神をあきらかに見たので、信仰を失ったという。普通なら神を見れば信仰が深まるわけではないか。なぜ、信仰を失うのか。信仰を失ったからといって背教者になったわけでなく、その人物は聖人になったという。聖なる背理というべきかと古井は書いている。神というはたらきというのは人智で計り知れない。その存在を認知することは常人ではありえない。ところが、歴史上、ときどきその神を見たという人たちが出現する。そういう人々のことに関心をもつ古井がこの書を表した。古井はドイツ語の教師でもあった。実は、私の教養部時代に講師として金沢に赴任していたことがある。そういうこともあって古井に親しみをもつ。
古井はこの作品のテキストとして、エックハルトを選んだ。私も前からこの中世の神秘思想家のことが気になっていたので、この本はジャストミートというところか。読了したところで、この本の感想を書くことにして、冒頭の章のなかで気になった箇所を抜書きしておく。
神を識ることと、神を信ずることは違うという指摘。この箇所にわたしは感じ入り、思わず目からウロコであった。神は見えず、聞こえず、触れずだからこそその存在を“信じる”のだ。見えて、聞こえて、触れて識ることが出来るなら、それは信じることではない。
昨年の母の通夜の折、牧師から教えてもらった東方教会の密教。「人には考えてはならないこともある」という言葉が甦ってくる。
古井が紹介するエピソード。ある労働することに熱心な女の座右の銘。神が語った言葉だと、その女は言ったという。
「病みくるしみほど、そなたはわたしにとって愛しき者となる。
人から蔑まれるほどに、そなたはわたしに近くなる。
貧しくなるほどに、そなたはわたしにひとしくなる。」
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