ふるさとは消えた
大江さんがインタビューでこんなことを答えている。
問い:この先、四国の故郷に戻られる計画はあるのでしょうか
「ありません。母親が亡くなって、私に故郷はなくなりました。」
この件を読んでどきっとした。私もそういう心境だ。母がいない故郷へ帰ってみたとて何があるか。何が待っていてくれるか。
21日の夜、末弟が見舞いに来てくれた。先週、敦賀へ帰って、母のことで近所に挨拶回りをしてきてくれた。その報告も兼ねて、面談室で、田舎の家のことをどうするかという話におよんだ。
三人の息子があっても、もはや誰も敦賀に帰る者はないだろう。いつまで、実家を空き家のままにできるだろうか、と弟は心配する。実際、今冬は雪が多く、庭の雪釣りの木もかなり傾いていたそうだ。ひょっとすると、庭木の1本や2本は雪折れするかもしれない。
いろいろな形見が家にはある。父母の写真、記録、父の茶碗、母の短冊、息子たちの品々。その一つ、一つの処分の吟味をすれば、いくら時間があっても足りない。私は弟にこう言った。「いざとなれば、一切合財をブルドーザに任せるしかない」
荒っぽいこととは重々知っているが、こうでもしなければ未練を断ち切ることはできまい。できれば、私だって実家を残しておきたい。あの町のことを胸に置いておきたい。
私のパソコンの壁紙は野坂山遠望の景である。幼い頃に親しんだ山は野坂山でなく、天筒山だった。テツツヤマ。つぶやくと、山の風景、父母の若い顔、ともだちが浮かんでくる。そういう思いを抱いたまま老年をむかえ、500キロ離れた湘南で故郷慕うことは辛い。
いっそ大江さんのように、「私に故郷はなくなりました」と宣言すべきでは。
大江最新作「水死」のなかで登場するコギーの母とコギーの合作の詩。
コギーを森に上らせる支度もせず
川流れのように帰って来ない。
雨の降らない季節の東京で、
老年から、幼年時まで
逆さまに 思い出している。
森を散歩した。半時間ほどの散歩だったが、すっかり気分が一新した。オペラグラスをもっていったが、今日はなんと3羽ウォッチングできた。しじゅうからを目の前で見ることが出来たのは嬉しかった。
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