いつもベッドが聞いていた
夜9時過ぎた病棟は魚のいない水族館のようだ。安全のために病室のドアは開かれたまま、うすぐらい常夜灯がぽつんぽつんとともっている。ときおり見回りにくるナースの影が揺らめく。
エアコンディショナーから鈍い風の音が絶え間なくこぼれてくる。
私の好きな矢沢宰くんの詩「汽車」を思う。
〈汽車〉
毎夜ベッドが聞いていた
汽笛に乗って
今、私は家に帰る
正確なフレーズは忘れたが、こういうのだった。矢沢くんは18歳で、肺結核で死んだ。この15年の間、早春が来るたびに、大磯ツヴァイクの道でいつも彼の詩を思っていた。
ベッドに横たわり目を閉じていると、
先日出会ったふるさとの従兄弟たちのことが脳裏をかすめる。
母の死に際して、葬儀の席で幾十年ぶりかに顔を合わせた、遠縁の従兄弟。
少年時代、忠霊塔の丘でいっしょに遊んだ日のことを思う。急傾斜の石段をどちらが早く登るか競争した。例の「グリコ、パイナップル、チョコレート」もやった。丘の裏の崖を探検もした。少年の日の時間が経つのは早い、すぐ日が暮れた。
暗くなる前に帰ったほうがいいよと伯母に言われて、忠霊塔の丘のある岡山から町まで帰っていく。お気に入りの自転車に乗って、国道8号線を疾駆した。小学校2年のときに買ってもらったチョコレート色の自転車。ぎこぎこペダルを踏みながらおよそ2キロの道のりを帰った。引込み線の踏み切りを渡り、東洋紡績の正門の前を抜けると、木の芽川の大橋。そこを渡れば、母や弟たちが待つ我が家が見えた。
家に着くと、裏に回って水道で足と手を洗い、自転車を納屋に入れて、「ただいま」と声をかけて台所から入った。
二人の弟たちを相手に夕飯が出来るまで遊んだ。夕方のラジオがお気に入りで、ビリーパックや紅孔雀を聞いた。
――故郷の山河が浮かんでくる。
敦賀から京都へ向うと、地溝帯の断層となる険しい山々となる。その入り口に衣掛山と美しい名のついた山がある。この山の標高差は大きく、列車は一気に駆け上がることができず、ループ式で衣掛山を巻くようにして登って行く。だから、ある箇所では進行方向が逆になる。一旦離れたはずの敦賀の町がふたたび前方に現れる。前後がトンネル内なので、一瞬夢のように日本海に面した敦賀の町がぽかりと浮かび上がるのだ。手前に忠霊塔のある丘、その丘の向こうに母の住む郊外の町があり、その先に群青色の日本海が広がっている。この風景を、ふるさとの面影をベッドで思っている。
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