朝焼け
午前3時15分に目が覚めた。ちょうど1日前の22日に母危篤の知らせを受けた時間である。意識しているつもりはなかったが、同じ時刻に目覚めるとはやはり気が昂っているのかもしれない。
長かった昨日の一日を反芻する。
病院へ駆けつけて、母の死を目撃し、霊安室で搬送車の到着を待ち、遺体を弟の家まで運んで安置した。葬式はふるさとの敦賀にしたいと息子たちは考えたが現地の受け入れ態勢を確認するまでに数時間がかかった。26日に本葬を行うと決めたのは10時を回っていた。
それから、東京にいる母の唯一人の友人である太田治子さんに連絡をとった。
太田さんは11時過ぎ最寄りのあざみ野の駅まで駆けつけてくれた。弟宅へ弟の車でお連れして、永眠した母を太田さんに看取ってもらった。静かに眠る母に太田さんはあたたかい言葉をかけてくださった。
太田さんにしてみればわずか半年の間の激変にさぞ驚いたことだろう。二人が会ったのは8月の半ば。若狭に取材で出かけた帰りに敦賀に立ち寄り、久しぶりに母と再会したのだ。その日から2週間も経たないうちに母は病で倒れ東京へ向かった。太田さんからなんども母を見舞いたいと呼びかけていただいたのだが、抗がん剤のせいでなくなった髪の毛がふたたび生えそろうまで待っていただいてと母はお見舞いを固辞していた。母のなかでは、もういちど活動できる日が来ると思っていたらしい。
新百合丘まで太田さんを送り、小田急で私は代々木にもどった。
会社のデスクにはたくさんのメモがあり、その処理に追われた。夕刻、兼ねてからのアポで、品川で科学者と会って取材。遺伝子ゲノムの今後について示唆に富むかずかずの情報を得た。終わって引き上げたのは7時半を過ぎていた。さすがに疲れた。
寝床に入って、母の死というものを考えようとするが、頭脳のどこかに穴が開いたように考えがまとまらない。いろいろな連想が湧いてくるいっぽうで、それらが集まって何かを意味するかというと、そういうわけでもない。
ふと斎藤茂吉の連作「死にたもう母」を考えた。あれは、斎藤が母の最期を看取ってから数日後に、山形の温泉場にこもって作った作品だったはず。死にゆく母のリアルタイムの作品ではなかったという、とりとめもないことを考えた。
今6時。朝焼けが始まった。あかあかと美しい。葉を落とした銀杏の林が影絵になっている。
今度放送する「宮崎駿/養老孟司対談」のなかで、宮崎さんが夕焼けを見てしみじみつぶやく場面がある。「ああ、死んでしまうともう夕焼けも見られないんだ」宮崎さんは夕焼けを見ながら深々とため息をつく。その場面の夕映えにも負けないくらい美しい朝焼けが始まっている。
昭和47年、私は大阪で勤務していた。週末に敦賀へ帰省して、月曜の朝、普通電車で大阪に向かうことが多かった。始発の電車は23歳の私には辛かった。でも4時前から母は起きてストーブに火を入れ、みそ汁を作って送り出してくれた。白い息を吐きながら駅までの寒い道を歩いた。そうやって乗った始発電車のなかから見た朝焼け。
23日、祝日。今朝8時に母の遺体を載せた搬送車が敦賀に向けて出発する。見送りに行くつもりであったが、体が大儀なので遠慮することにした。25日には会えるから見送りは勘弁させてもらう。
明日はクリスマスイブ。母の前夜式はクリスマスにあたる。長く信仰に生きてきた母にとっては意味深い日と重なっている。
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