過ぎ去ろうとしない過去
思い出したようにして、1986年に起きたドイツ歴史家論争の書や番組を見ている。あのなかで使われた「過ぎ去ろうとしない過去」という言葉に引っかかりを感じてしかたがないのだ。
口火は歴史家フィリップ・ノルテが書いた論文「過ぎ去ろうとしない過去」だった。ノルテはナチの大虐殺は前代未聞のことでなく、比較できるもの、例えばソ連のスターリン粛正やポルポト犯罪などと相対化できるものではないかと提起したことから論争が始まった。保守的歴史家のノルテには、ドイツの歴史を語るうえでこの蛮行をいつまでも語られることの苦痛を吐露したものだろう。この心境を「過ぎ去ろうとしない過去」と呼んだ。
この意見に対してハーバーマスは、《歴史を国民統合の政治に利用する歴史修正主義》としてつよく批判したことから大論争が始まったのだ。数年後、日本でもこの構図とよく似た歴史教科書論争が始まる。私は、ドイツの後続の論争「バルザー/ブービス論争」を取材し番組にしたこともあって、90年代後半にこの歴史家論争についてすこし勉強した。
その論争のことについて思い出したのではない。ここで使われた「過ぎ去ろうとしない過去」という表現に昨日からずっとこだわっているのだ。
過ぎ去ろうとしない過去――過去が主体の外側にあるのだ。歴史は主体が作り出しその責任で過去として位置づけると考えるなら、歴史は主体の配下にあるもの。だが、過ぎ去ろうとしない過去とすれば歴史は主体を逸脱して存在する。つまり私の手の届かないものとしての過去。過去は主体の意志を無視して居続けようとすればできるということになる。このことに居心地の悪さを感じて気になっているのだ。
むろん、歴史を自分の配下に置くという”不遜”なことを考えているわけではない。が、自分の行った、作り出した出来事が自分の意志とは関係なくそこに居座っているということに、ある耐え難さを感じるのだ。過ぎ去らない過去ではなく過ぎ去ろうとしない過去は、あきらかに過去に主導権が担保されている。この「理不尽さ」が苦痛に思う。過去は自分のもとに回収できないのか。この苛立ちは、今の私の置かれた生き難さに通じている気がしてならない。
なぜ、こんなややこしいことを記しているのだろうか、明け方の褥でぐずぐずしている私の頭では理解できない。が、こういうことを外が白みはじめた時刻からああだらこうだらと堂々めぐりしている事実。これはいったい私のなかで何が起きたというのだろうか。bakamitai
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング