太宰のつづき
太宰は若い日精神病院に入れられたことが大きな傷になったという。放埒と自殺未遂を繰り返す彼を、周りが危ぶんで措置したと思われるが、当人にとっては心外だったらしい。今も、当時のカルテが残っているようだ。読んでみたいものだ。
はたしてこの措置は太宰が抗議するように不当なことであったのだろうか。”冤罪”とみなすことが正しいのだろうか。
病跡学というのがあって、病気の跡をたどる学問を指す。そこでは、太宰は分裂症、神経症の跡が明白だと扱われているそうだ。正確には自己愛性パーソナリティ障害を患っていたという。誤解を招くといけないから、一言加えると、これは断定でなく、そう見られているということ。病跡学の研究者は太宰を診断したわけではなく、彼の作品、行動からそう類推しているのだ。だから、実際の診断はどうであったか、カルテを見てみたい。
精神科医の米倉育男によれば、この障害のなかでも太宰は「操縦型人格」ではないかとみられている。自己中心的で自己愛を満足させるためにのみ他人と付き合うというタイプだ。この人格は、他人に軽蔑感を抱いているが、表面的には親切で暖かみがあり、人の気をひいたり操縦したりする。つまり、周りを翻弄するのだ。
太宰が太田静子と結ばれて1ヶ月、ふらりと静子の山荘に現れた太宰は、静子から妊娠したことを告げられる。いいことをしたといって静子を抱きしめるが、一方、「これで静子とはいっしょに死ねなくなった」と淋しく笑う太宰。
このあと、太宰から静子への連絡がぷっつり切れた。
それから3ヶ月後、静子は堪えきれず三鷹の太宰を訪ねる。ところが太宰はよそよそしかった。彼女のほうをほとんど見ないで、仲間と酒を呑んでばかりいた。最後に、三鷹の知人宅によって、太宰は静子の肖像画を早描きしてみせる。画に残された静子は泣き顔だった。太宰は静子の気持ちを知りながら邪慳にしていた。このとき、静子のおなかは大きくなっていたはずだ。
太田治子さんは、この太宰の最後にとった態度は判るという。『斜陽』を書き上げた太宰にとって、静子とのことは終わったのだからだとみなす。そして、静子への決別のメッセージは、斜陽の最終場面、主人公かず子の手紙というかたちで、太宰は書いた。そこにすべてがあると治子さんは見る。そうやって、かず子の手紙を読むと、なるほど太宰が静子とそのこどもに宛てた思いがなんとなく判る気がするものの、しかし、勝手な言い分だなと思う。これが無頼派と呼ばれる文学者の所業だと文学史は語って来たが、しかし太宰が障害をもっているとなると、評価もまた違ってくるのではないか。否、そういう形而下の問題ではないのだろうか。
ところで。『女学生』然り、『キリギリス』然り、一人称文体のこれらの作品群は私小説の範疇に入るのだろうか。先日死去した庄野潤三なんて作家は私小説作家といえるのだろうか。私小説なんて、小林秀雄の批判で終わったというが、なかなかしぶといぞ。私は、太宰は花袋、岩野泡鳴、藤村につながる私小説系と見ているのだが。
などということを、昨夜からつらつら考えて来た。
明けて、日曜日。今朝も蒸し暑い。昼から、京都のマンガミュージアムに向かう。明日の本番に向けての準備が今夜から始まるのだ。そろそろ、頭を切り替えて、宮崎駿、養老孟司両氏のことを考えなくてはなるまい。このお二人は今保育園ということにいたく関心があるそうだ。なぜ今保育所なんだろう。その疑問をかかえて、昼からの新幹線に乗る。
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