恩寵
苦しいことが続いた週末、思いもかけないところから穴が開いた。
しみじみ、社会というのは人のつながりだと思う。一人でやきもきして推測しているときには分からなかった善意がそこにあった。
このところ、窮境ということともに大江さんの生き方を思うことが多い。光さんが障害をもって生まれたとき、その死を思って(願っていたという意味ではないか)退廃していた。私が学んできたフランスユマニスムはそういうものではないということではなかったかと、あるとき大江さんは気がつく。そして、悔い改めて光さんと共生していく道を選ぶ。
数年後、脳に障害をもち話すこともままならない光さんを連れて、北軽井沢の別荘の近くの池まで散歩に出かけた。夏の終りの夕暮れだった。ダケカンバのなかでくいなが鳴いた。ふだんは物をほとんど言わない光さんが「クイナです」とアナウンサー口調でいった。最初にその声を聞いたとき、大江さんは偶然そう言っただけだろうと思い過ごすつもりでいた。その一方、もしかすると偶然でないかもしれない、もし偶然でないとすれば、光のなかに思いもかけない可能性があることになる。偶然でなく、本当に認識して光は語ったということを顕示してくださいと、大江さんは祈った。信仰をもたないものの祈りである。それから、次のクイナが鳴くまで大江さんは渾身から祈った。後に、あれほど祈ったことはないと、大江さんは述懐している。
―-そして、クイナが鳴いた。「クイナです」と再び光さんは言った。
この出来事を「恩寵」だと、大江さんは考えている。
この恩寵に近い出来事に、今日、ついさきほど出会った。あらためて、今朝までの私は退廃のなかにあったとつぶやくしかない。
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