フォッサ・マグナ
梅雨の晴れ間、薄い青空が広がるなか、白金台を散歩した。目黒通りを五反田方向へまっすぐ、左折してプラチナ通りを下る。途中で東大医科研究所の広大な敷地に入って、緑を楽しむ。マテバ椎が可愛らしい葉叢をそよがせていた。スダジイも美しい。週末だからといっても、白金には人ごみもなく、風が吹き抜けて気持ちのいい道だ。
14年前の今日、私は脳内出血を発症した。梅雨で湿度が高くじとじとした日だった。同僚と一杯やって、品川から東海道線に乗った。頭がふらふらするなあと嫌な感じの自覚はあった。川崎を過ぎたあたりから気持ちが悪くなり横浜でいったん降りた。ホームに立つと、小雨が降っていて、顔に雨粒があたるとすっとして気持ちがよかった。
思い直して、再び電車に乗って大磯に向かう。後で脳神経の主治医が言うには、横浜で降りたこのときに脳の血管は切れていたと推測される。
12時過ぎに大磯に着き、家人の車に乗って山の上の我が家をめざす。帰宅して、いつも通り風呂に入った。1時過ぎに床に入った。ところが、頭が痛い。眠れなくて起きだして、ベランダに出た。小雨を浴びると気持ちがいい。突然。吐き気がして吐いた。吐瀉物がビューっと5メートルほど飛んだ。これは尋常ではないと、覚束ない頭で思った。深夜にもかかわらず、隣町の平塚市民病院に行くことにした。
近在では一番大きな総合病院で、脳神経科もある。この夜の当直医が幸運なことに脳外科の専門医宮崎医師だった。無愛想で怖い先生だが、この先生がいなかったら私はどうなっていたか分からない。6月21日未明、私は緊急入院することになる。この日から3ヶ月に及ぶ闘病が始まるのだ。
47歳の6月20日の発作は私の人生の分岐点だ。人生のフォッサ・マグナ(大地溝帯)にあたるだろう。それまでの私は番組を作ることだけしか考えておらず、朝も夜も仕事に追われていた。家庭や家族のことはもとより、自分の人生なんてこともまったく関心をもたなかった。番組を作れない自分などいうことを想像することができなかった。
その私から仕事が取り上げられ、そればかりか命すらも危ういという状況に放り込まれたのだ。生き方を大きく変えなくては生き延びられないと、宣告されたようなものだった。私は焦り、悩んだ。もし、番組を作ることができないなら生ける屍と同じではないか、そんな情けない自分などはいらないと否定する日々が続いた。
でも、生きたかった。死ぬのは嫌だとつくづく思った。普通に歩きたい、子供と遊びたいと思った。
一応、退院してからは、仕事に向かう姿勢も変えた(つもりでいた)。仕事人間を止めようと思った。
が、1年経って、体が恢復すると、また元の仕事人間に戻り、そこから定年の57歳までの10年間は疾走することになる。たしかに、外見は以前と変わらないように見えたが、内面は変わった。番組を作ることだけに生きがいを感じるのは止めにした。友だちを大事にしたいと思う人生に変わった。多忙を理由に会おうともしなかった昔の友と連絡をとるようなことも増えた。少なくとも、私はこの日から生き方を変えたのだ。
だから、1995年6月20日は私の大事なフォッサ・マグナだ。発作マグナと言っておきたい。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング