どうも最後まで見れない
昨夜、「千と千尋の神隠し」がテレビでやっていた。これまで見る機会は3、4回あったのだが最後まで見たことがない。ということで、途中であったが(最初から20分までは見ている)見ることにした。ハクが出て来るあたりからだ。この湯屋という建物、設定はすごく好きなのだが、妖怪たちのキャラクターがあまりにやり過ぎという感じがしてなかなかなじめない。カエルのような顔の従業員、異常にでかい顔の湯女たち、なにより湯婆婆の顔かたちはデフォルメの面白さと分かっていてもついていけない。マックロクロスケぐらいのシンプルさがいいのだが・・・とか思いつつ見ていた。
と、いつのまにか記憶がない。眠ってしまったのだ。やはり、今回も最後まで見ることができなかった。この作品と「もののけ姫」は貫徹できない。なぜだろう。
モリシマさんと会社の前の喫茶店で打ち合わせをした。丸秘段階の企画というのは多少人目をはばかるもの、オフィスの席では廻りが気になるので、外でということにした。今、モリシマさんが構想している映画は相当大きな規模のものだ。数年かけて実現を図ろうとしている。映画のプロデューサーというのは、私のようなテレビと違って、実に周到にじっくりと攻めていくものだと感心する。シナリオを描く前のシノプシスを3回ほど書き直して、やっとカタチにした。それを預かって、週末読み込むことにする。モリシマさんは私より3歳年長だが、骨惜しみせず、関係者をこまめに歩き回っている。このまめさも映画プロデューサーの大事な属性だと、しみじみ思う。映画で金儲けするのも大事だが、モリシマさんを見ていると、作品を作るのが本当に好きなのだということが分かる。こういう情熱をもったプロデューサーというのはどれぐらいいるのだろう。
昨日、久しぶりに河合隼雄さんの『中年クライシス』を手にとった。20年ほど前に書かれたこの本によって書かれてあることは、年々、私の身につまされることが多くなる。何度も読み直す章に、大江健三郎の『人生の親戚』をめぐる論考がある。人生の親戚とは悲しみのことである。ある心にひどい傷を受けた女性の物語。河合さんの解説を読んでいるうちに、大江さんの『人生の親戚』を読みたくなった。この作品は、大江さんのなかでも珍しく読みやすいものだ。分かりやすいということで、評価があまりされていないが、河合隼雄が指摘するように、中年の危機を考えていくうえで大切な作品だと思う。河合さんの文章に誘導されて、『人生の親戚』を読みたくなった。
今、村上春樹の新作が話題になっている。どういう内容かは知らないが、近年思索が深まっている村上作品はきっと面白いだろう。だが、それと同様大江文学の存在を見落とすのもいけない。
加藤典洋が「大江健三郎と村上春樹」という評論を書いているが、この本が出たとき着眼点に感心した。
若手の評論家が言っていた。「1980年以降、日本文学は結局大江健三郎と村上春樹の二人しか生み出していない。この二人を基軸に展開したことになる」
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